私の足跡

昭和10年9月23日に岡山県片上町で生を受け、現在に至っている。戦後の復興期に基幹産業でその一翼を担い、社会に対する貢献は果たしたものと自負しているが、典型的な家庭を顧みない仕事人間であった。
自叙伝を出すには面映いし、さりとて自分の足跡は残したいと言う思いからこのページを作成する事とした。

今後も記憶がよみがえれば加除訂正し書き進めていきたいと思っている。


蛍雪時代

幼いときの記憶はほとんど無い、父の仕事の関係で3〜4才の時上海に住み、幼稚園3年間と国民学校入学の頃からが記憶に刻まれている。 今回(2001/7)ホームページの移設にあわせ、母の遺品アルバムから幼いころの写真を見つけ記憶に無い部分を補強した。

小学校

幼稚園は旧市街の教会に、昭和17年4月開戦直後に新市街に出来た第七國民小学校 (第八だと思いこんでいたが、WEBの写真を見て第七に間違いはないと同校を卒業した方からメールがあったので訂正した2005/8/26)に入学。 初めての父兄参観日、靴の入れ方が悪いとして靴箱から靴を放り出されてきまりの悪いおもいをした事のみ記憶。

上海の小学校は1学期だけで帰国、広島県福山市の小学校2校を経て、国府村(現府中市)の小学校に転校。都市と田舎の学力差を痛感。運動会のリレーでアンカーになったものの、ビリでバトンをもらい泣きながらゴールした事、習字の家庭教師についた事程度の記憶。

昭和19年、父の帰国にあわせ広畑村(現在の姫路市広畑区)に転居、姫路市城巽小学校に片道1時間かけて越境入学するも、しばらくして空爆を避けて地元の広畑小学に転校し卒業

終戦直前に姫路は空襲を受けたので、広畑に転校したのは正解ではあった。僅か1学期少々の在籍で、これと言った記憶は無い。ただ同じ藤井と言う医者の息子を同姓と言うだけで記憶していた。

広畑小学校には2年ほど在学したが、ここですごい天才に遭遇した。かれは算盤を得意とし、10桁の暗算を苦も無く答えていた。一芸に秀でればその他にも自信が出るのであろう、全科目について目を見張るような才能を示し、世の中にはすごい奴がいるもんだと吃驚した。

結局6年間に6校で学び、転居に次ぐ転居でよくいじめに遭わなかったもの。


中学校 (広畑中学)

新しい制度で出来た広畑中学に同級生そろって入学、3つの小学校から集まり同級生総勢400名。 ここで私の生涯に大きな影響を及ぼすすばらしい友人と尊敬止まない黒岩先生に出会う。

数学教師黒岩先生に私淑し、理数系に興味深まるに反し最初の英語の時間に居眠りをして教師に叱責された事から、ますます理数系に傾斜を深めた。

大阪日本橋までパーツを買いに出かけラジオを作り、短波放送のヴェリカードの収集。キットを購入して天体望遠鏡を自作し、惑星、星雲を見て天体の不思議に魅せられた時代。

400名8クラス編成、どうも成績順に組編成をした形跡があり、3順目以降になるとわからなくなるが、男女ともにベスト10くらいは簡単に推測できた。テレビも無い時代で、特に猛勉したと言う記憶は無いが羽目を外すような事もなく、刺激の少ない時間を過ごした。

修学旅行は奈良、伊勢で大阪以東にはこの時が初経験だった。


高校時代 (姫路西高)

学区制が引かれ、本来なら創立間も無い南校に行くところを、寄宿して姫路西校(旧制姫路中学)に越境入学。木製の校舎には各柱に支柱が取り付けられ、古色蒼然とした校舎に歴史を見た。 同じ中学から15名ほどが入学し、10クラス500名の大所帯。遠く三石からも越境者あり。

通学は徒歩30分で山陽電車、20分で姫路, 駅から姫路城を迂回して30分で学校へ。私より一駅先に乗ってくるのが倉内君、中学の同期で駅から学校まで二人で歩きながら彼の知識を吸収したのがすご〜く役に立ちました。

小学時代の終わりごろから始めていたテニスがやりたくて、テニス部に入ったが毎日ボール拾いだけしかやらせてもらえず、1時間半の通学時間を考えると続ける事も出来ず、1学期だけでGiveUp!でも3年の秋の体育祭に混合ダブルスに同級の梅沢さんと組んで優勝。

アマチュア無線部で大坂で始まったテレビの試験放送を初めて受信した安田君、等すばらしい同期生たちに囲まれた環境下で一心に受験勉強。兵庫県西南部の秀才が集まる中で頭抜けていたのが倉内君、大体10番以内であれば東大へ、50番以内であれば京都大阪へ。

この時期占領下で許可されていなかったアマチュア無線にJA3UCなるいんちきコールで楽しんでいたところ、ある日安田君がアンカバーで捕まったとの情報、直ちに仮病を使い帰宅しアンテナを倒すやら、送信機を分解して隠すやらの大騒ぎ。
(この件2004年に安田君本人から警官に取り囲まれたのは間違いであると指摘を受けたので修正した。)

よき友に恵まれ、強力な大勢の競争相手の中での緊張感のある3年間を過ごし、高校入学式の日に買った「蛍雪時代」で初めて知った工大を目標に恵まれた環境下での3年間だった。

東京工大は物理・化学が必須、数学2科目、社会2科目、国語・英語(だったと思う)なので、物理は論理的に考えられるが化学は暗記物で、文系に人気のあった生物をパスし、1年と3年に化学を2回受講した。社会では暗記が不得手なので日本史をパスし、世界史と地学を選択(生意気にも将来世界を相手にするにはこれが必要だろうと)。などなど、工大向けの偏った科目選択をした。

ちなみに進学指導では、指導教官から工大には前例が無いのでどの位で入れるかわからぬ、志望校を変えるよう指導があったがこれを無視。 二期校も私学も受験せず受験料は400円のみと親孝行。

結局、姫路西高から始めて工大に進み、その後細々と後輩が目指すようになった。

卒業後半世紀以上を経過し当時の情報が貴重に思えてきた。昭和26年入学時の西高新聞と、卒業した昭和29年の西高新聞の紙面一部を掲載した。(2011/5/22追加)


大学時代 (東京工大)

大学受験の年(昭和29年)正月をはさんで東京の予備校で研修。 大井町線でツバメのマークをつけた学生を見て“アッ工大生だ!”と尊敬の眼、研修で役に立ったのは、多次元方程式は次元の数だけ式があれば必ず解けるの一つだけ。 でもこれが入試に出てきて大満足。

300人の募集に6000人の受験で、試験場も本校と早稲田の2個所で行われるので、東京在住の父の知人にせめて受験は本校でと早くから願書提出を依頼。 試験当日は400人が入る教室で“この中で20人か、後19人は誰だろう”と空元気。

受験が終わったら、構内に発表を電報で知らせると言う在学生が窓口を持っていたので申し込んだ。不合格の時には「サクラチルトウ」と言う文面だそうで、これのみ記憶して帰った。

発表当日、電報を待っていたがなかなか来ない。夕方やっと来た電報には「サクラチルトウ」では無い文面で(もう忘れてしまった)合格した事を知った。ところが知らせたい父が帰って来ない。夜半近くに帰ってきたが、どうも不安でどこかで時間を潰していたらしい。門を入り居間に電気がついているのを見て、家に入れたとのこと。

当時は外食券なるものが無いと食堂で米飯が食べられ無い時期、食事付き下宿1年の後自由を求めて部屋だけ借りて外食生活3年。 部屋を探すとき一緒に付いていってやると、親切な佐藤君が部屋を見るなり俺もここにすると8畳の洋間を、おかげで3畳の小部屋生活をする羽目になってしまった。

同級生の6割は浪人経験者で、この連中の知識の広さに圧倒され、10代から20代の初めまでの1年の重みを改めて認識。 入学後も授業についていくだけで精一杯、特に独語にてこずり半年(1学期)終わってみたら散々な成績、一念発起し独語だけ勉強してほかの科目まで影響するなら、独語を止めようと就学規則を調査。 2カ国語を履修し12単位以上が卒業資格。なら独語は1年で止めて、その代わり英語を4年までとれば良いはずと方針変更。 4年生で外国語を履修するのは極く僅か、その中の一人に。

工大は入学後だんだんと専門に別れる方式で、1学期の成績不良で、希望していた電気系には入れそうもなく、機械系は製図が嫌いで、化学系に籍を置いた。 高校時代に有機化学が得意だったので、有機にと思っていたら、この授業がとてもついていけそうに無い代物。 可能性のある専門科目は窯業と金属、だんだんと絞り込んで(込まれて?)結局金属コースに。

金属には同期生10名、鐵と非鉄があるが躊躇なく鐵を選び、特殊鋼の大家である岡本研究室を希望した。 岡本研究室には10名中3名が入室し非常な偏析状態になった。

クラブ活動は、軟式テニス部、写真研究部、無線研究部に所属。 詳しくは趣味に記載するがこれだけで結構忙しい状況で、アルバイトも殆どしなくてすむ幸運もあって青春を謳歌した。

また、僅か300人ほどの同期生の中で、クラブ活動とは別に自然に仲良し3人組が出来、あちこちにつるんで楽しんだもの。 最近は年を取った事もあって、時々集まることもあるが、卒業後山口県に居たこともあり、同期に会うことも殆ど無い状態が続いた。


鉄鋼技術者として

昭和33年八幡製鐵株式会社に入社、1ヶ月の研修を終えて配属先は山口県光製鐵所。 昭和29年に開所した八幡製鐵の2番目の製鐵所で、当時世界最新鋭の線材工場が稼動していた。 同期入社100人から5人のみ光となったが、希望したのは原淵君と私のみ。 彼は連続鋳造をやりたい、私は圧延をやりたいと。その他電気の中村君、機械整備の谷君、土木の戸田君であった。

線材工場で3交代勤務の監督さんとして生産現場での諸々を、その後線材技術で硬鋼線材、ピアノ線材等の品種拡大を経験。 その後稼動を始めて間も無い熱間押出工場で軸受鋼を生産することになり、金属屋に白羽の矢が立ち、線材から熱間押出工場に変わり、鋼の中でもっとも高級な軸受鋼を連続鋳造で一貫生産するプロセス開発に携わった。その他熱間押出し法を活用しての特殊な形鋼の用途開発、需要開拓やステンレス鋼製品を技術のテーブルマスターから現場の係長、技術の係長と言う油の乗り切った時代に体験した。

鉄鋼技術者とは直接関係ないが、昭和39年の東京オリンピックの聖火リレーが光市を通過の際、製鉄所代表メンバーの一員として参加した。この写真は母の遺品を整理していて見つけたものでここに記載する。(前列左から小生・小平工場長・的場、あとは顔は分かるのだが・・・、この年の4月に熱押の技術係長になったばかりの油が載ったときだ)

昭和45年富士製鐵株式会社と合併、新日本製鐵株式会社となり八幡、富士の交流人事など騒がしかったころ線材工場長として再び線材圧延に。 当時君津に製鐵所を建設し最新鋭の線材工場を建設することになり、優秀な先輩方が出ていったおかげ。 このころステンレス線材を圧延することになり、疵に悩まされつづけた。 線材工場は光製鐵所の発祥の工場であったが、次々と稼動開始したステンレス鋼板工場、鋼管工場にあらゆる点で押されっぱなしで、失地回復に熱を入れたもの。

その後熱間押出工場長、生産技術課長を経て本社技術開発部条鋼担当副部長に。 これは現場ばかりの経験者には青天の霹靂で頭を抱えての転勤となった。 しかしながら本社での5年間は、役割柄、事務系の人材、研究者、学識経験者、外国の技術者、法規関係者、同業他社技術者、連盟、協会関係の方々との折衝、全社の条鋼関係の開発のお世話などを通じて、幅広い人脈が出来たことが非常に大きな財産になった。 ああ言えばこう言う術を覚えたのもこのころ。
特にアメリカの鉄鋼会社と共同開発プログラムの当社側責任者として技術開発を進めた経験が、ヤケクソ語学力と習性・思考過程の差を実体験できてその後の外国人との折衝に役に立った。

5年のお江戸駐在を終えて光の製造部に帰任、その後生産技術部長、副所長として平成元年まで勤務。 そんなことで、全国展開の新日鉄にいたものの光藩から出ることはなかった。 光は私の生涯で一番長く住んだ地であり、ふるさととも思える。

平成元年になると同期入社はほとんどが出向してしまい、残りわずかになって、ほのかな期待はあったものの、岡崎工業株式会社に出向せよとの命令。

出向後しばらくして他社と合併話が持ち上がり、合併調整に翻弄された。 従業員向けには対等合併と言うものの、内実は吸収合併であり吸収される方の従業員、管理者の地位の保全に奔走。 合併直前に相手会社より引き取りを拒否され退社する羽目となった。

上司、親会社諸先輩の御配慮により合同製鐵株式会社に再就職。 主として技術行政を担当し6年間役員を勤めた。1997年の総会で合同製鐵の役員を退任し、1年間顧問として残務整理をした。たまたま私が進めたタイへの技術指導が、タイのバブル崩壊により中断することになりその後始末や、市況品種の低落で新規市場の開拓等で1年が終わった。

この間その時々の最先端技術を製造現場、技術管理の立場、技術行政の立場、果ては経営者の立場から担当することが出来て技術者冥利に尽きる思いがしている。 部下には無理難題を吹きかけもしたが、成果を以って許していただきたい。

神戸市御影に住んでいて、1995/1/17の阪神大震災をど真ん中で体験した。 近所の被害状況を見るに付けても、鉄鋼材料の安全性を実地破壊試験で見せ付けられ、鉄鋼製造を生涯の仕事にしたことを自ら誇りに思ったもの。   また昔からの大勢の仲間から激励をいただいたことも忘れる事が出来ない


退職後の生活

40年に亘るサラリーマン生活に別れる事になったが、悠悠自適が出来るほどの準備もないし、全国展開の会社にいた事、ふるさとが無い事もあって本拠探しが最初の課題。 結局は何をするにも東京でなければという事で東京都の端っこの方に決めた。 実は昭和50年に光に持ち家制度を利用して、自宅を建て1年住んだが、東京転勤になり売り飛ばして身軽にしてしまった。 この自宅を持っていたとしても、光で生活をする事にもならなかったと思っている。 ふるさとが無く、浮草稼業の辛いところでもある。

環境関係の会社で

台湾のステンレス線材圧延をしている会社からの技術指導依頼、輸送関係の会社から合理化の指導依頼などの問い合わせがある中に、環境関係の会社から新しい環境技術を実用化したいので手伝えと言う話があり、毎月1週間出社と言う事で引き受けた。

結局はこの環境の仕事だけが実現した。 本業は鉄鋼製造であるが、マアこの不景気の上に特に鉄鋼はどっぷりと水面下にあるので当分無理でしょう。

直接出社するのは1週間とし、メールを使って仕事を進める事を申し出て了解してもらったので、いわゆるSOHOで仕事ができる。 と書けば格好良いが、あれこれ興味があり、やりたい事が多いこと、はっきりとした再就職では成果が出ないときに迷惑をかけてもいかがと考えた末でもある。 

とはいえ、部屋も机も置いてあるので、時間こそ不定期ではあるがほとんど毎日出て行った。

当初の仕事は、私が共同発明者になっている排ガス処理技術の実用化であるが、アイディア特許であるので、これをエンジニアリングが出来るよう、データ―の採取からはじめねばならなかった。排ガスの分析は非常に費用がかかるもので、代用値で測定することにしたものの、この代用値の信憑性について諸説あり今ひとつ疑問もあって、遅々として進まなかった。 

その間、その会社でホームページを作りたいとの希望があったので、これに取り掛かり、一応公開した。

ようやく1年後に装置のテスト機が完成し使えるようになった。 問題は測定データであるが、対象が今をときめくダイオキシンであり、測定をすること自体なかなか理解が得られないこと、サンプルを分析するのに1ヶ月以上かかること、分析コストが高いことなどで、もたもたしているうちに2年が経ち、試験データも揃わぬ内に、部屋も机も無くなり名実ともに非常勤になってしまった。

2000年8月末に、打ち合わせをするので、出社せよとのお達しで、良いデータが出なかったのかと心配しながら、恐る恐る出て行ったら、結果良好で実用化したいとの打ち合わせで、何とか面目だけは保つことが出来た。

しかしながら、ダイオキシン問題は今や注目を集める社会問題になっており、あらゆる熱の発生源では大なり小なり発生するもので、それだけに測定することでデータが出ること自体にアレルギーがあり、また表面的(公的)には対策をすでに打っているので問題は無いことになっている。そこに売り込むのだから簡単には進まない。価格・性能だけでは進まない世界であるだけに今後が大変だろう。

この非常勤も2001年6月を持って終了した。

技能工房じら

サンデー毎日の生活は一見楽そうであるが、目標無しに漫然と暮らす事は苦痛である。何か目標が欲しいもの。

たまたま、知人が大阪で2000年6月立ち上げで、ホテルを作ると言うので、そのホテルのインターネット接続環境を作ることとした。 モデムでもLANでも接続できるサーバーの設置がうたい文句であったが、その後モデム利用は急速に減少し、LAN比率を上げるための改造を行い(2001年)、2002年には無線LANの設置を行ッた。このための事前準備を戸惑いながら進めた。

これを契機に技能工房じらを名乗り、ささやかではあるがバーチャルな仕事を始めた。バーチャルと言うのは技能工房じらの守備範囲は鉄鋼製造・環境・インターネット・パソコンとしており、課題に応じてチーム編成を行い対応する事としているためである。

鉄鋼関連では、台湾中国から指導の依頼があり、数回訪問したが切れてはいないもののなかなか進展を見ない。その他ソ連から熱押について、南米から電気炉について問い合わせが私のWEBを起点に入って来ている。直ちに実現する話でもないが、嬉しい事である。 その後も私のWEBを見て、鉄に関する問い合わせが細々と続いてはいる。2005年1月には世界最新鋭の線材工場で特殊鋼の圧延について見て欲しいと訪問したが、彼らは特効薬を望んでおり、私に出来ることは解決するための手段・方法なので噛みあわなかった。それにしても、設備はすばらしいものだった。

インターネット関連では、ホテルのシステムは非常に好評であるが、バーチャルな集団ではメンテナンスの点に弱点があり、頭を悩ましている。私に言わせれば、システム業界には驕りがあり素人相手に暴利をむさぼっている(現役時代に散々悩まされた)。また素人の方(お客サイド)も次々と仕様変更を持ち出す事もそれを助長している。 とにかくソフト部分の対価を如何に設定するかではあるが、やり方によっては非常に安く作れる。問題はシステムのメンテナンスであり、近所ならともかく遠隔地ではコスト高になってしまう。事業の規模が大きくなれば専用の人員を持つ事も出来るであろうが・・・・。
その後ネット接続環境は急速に変化し、今やブロードバンドは常識となり、ノートパソコンもLANが組み込まれるようになった。ホテルのシステムは2004年に天寿(僅か4年間)を迎えてしまった。 とはいえこの時に設置した各部屋へのLANケーブルを使ってネット接続を可能にしたサービスは好評であり、1階では無線LANも使えるようにしていて、有効に使われている。

近所の小学校・中学校に行き、インターネットについての手助けをしたいと申し入れたが、未だ予算が付かないのでパソコンも無い、やることになったらお願いするとのこと。政府がIT教育をぶち上げている割には遅れているものとがっかりした。(ただしこれはやるとしても全くのボランティアであるが)

パソコン関連では、ある弁護士事務所から、パソコンを活用した事務の合理化を手助けして欲しいとの申し出があり、週1回出かけてシステムの構築、運用管理、使用アプリの使い方などを請け負う事になった。 合鐵時代にシステムを管掌したとは言え、部下のふんどしで作ったもので、自ら手を下しはしなかったが、今回は独りでやらねばならず、ちと荷が重いが、興味のある分野でもあるので熱を入れている。 この仕事を通じて、パソコンを使う人の使い方は本当に10人10色であること、パソコンの管理の奥深さを実感している。

その他知人などからパソコンの製作やLAN構築の依頼があり、年間10台以上のマシン組立てをしている。これは依頼者と一緒にパーツを買いに行き、依頼者の家で組立てる方法にしており、自分の技能向上と他人の褌で、新鋭のマシン組立てが経験できる点に意義を見出しているものである。 組み立てパソコンは50台ほど作ったが、2004年頃からは中古のパソコンをネットオークションで落とし、それをリメイクして差し上げている。インターネットやビジネスソフトを使うだけなら、この方法が最適と思っている。

年を取ると物忘れが早く、半年に1度くらいの頻度で出てくる問題は、解決策を忘れていることが多いので、TIPSを作って、何処にいても見れるようにした。

知人からホームページの設置についての相談が時々舞い込んでくる。 「基本的にベースとなるページは作りましょう」「1年以内に自分で全て扱えるようにしてください」と言うことで引き受けている。私が作成に関与したページはここに記載してある。

母の永眠

母が1998年10月27日に永眠した。 大津に老人ホームが出来る事を見つけて、さっさと契約し10年間を過ごした。当初老人ホームへの入居には反対したが、有料ホームで完全介護施設も完備しており、転倒して大腿骨骨折後歩行困難になって以降、母の老人ホーム入居が間違ってなかったと感服した。
合鐵時代には神戸在住だったので、時々会う事が出来たが、東京に引っ越して3ヶ月であった。


趣 味

私にとって、趣味は年とともに自然に移り変わって行き、これこそ生涯の楽しみ!と思っていてもいつのまにか興味を失ったものが多い。 自分で決めた目標が達成されて精進が止まったもの、適当な相手がいなくて遠ざかったもの、どうしても深みに入れないもの、 体力的に出来なくなったものなどがあるが、流行に後れる事だけはなかったように思う。ここで振り返ってみてその時々の仲間を思い出したい。

小学高学年時には路上野球を手製の布製のボールで楽しんだが、その後野球には向かないと分かり、たまたま社宅内のテニスコートで、テニスをするようになった。高校でテニス部に入部したもののボール拾いのみで直ちに退部。 大学では1年の春から4年の秋まで公式戦に出場。当時関東リーグ四部だった。 社会人になって、練習無しに試合に出て負けつづけて呼ばれなくなった。

中学時代からラジオを自製していたのが嵩じて、アマチュア無線に発展。無許可時代にアンカバーで法律破り、昭和28年秋に解禁になったので、大学入学と同時に国家試験を受験し29年夏に正式にJA3QLとして無線局を開局。就職後送信機を作る暇が無いこと、自作の風潮が薄れメーカー品を買えば高性能機がある事等に嫌気をきたし下火に。

父の影響で小さい時から写真機に親しんでいたので、写真部に入部、現像引伸し、ふすま張り等、写す事より扱う事が好きであった。月にフイルムを10本は写し、自分で現像もしていたが、カラー化により出番が無くなり、記念写真屋に落ちぶれついには同じフィルムが1年も入ったままに。ついにはレンズにカビが生えてきた。 いまやデジタルカメラで「闇夜の鉄砲数打ゃ当たる」で使っているが、センスが無いのでただのメモリーにしかなっていません。 (「大学入学後名機 NIKON SP を持って写真部に入部」と書いていたが、同期の写真部友人から「NIKON SPは昭和32年に発売になった物で入学時にあるはずが無い」と指摘された。当時の写真を見るとCONTAXをぶら下げており、SPを購入したのは就職してからの事と思うに至ったので訂正する

昭和20年代後半にダンスが流行、中学時代に社宅のふすまをぶち抜いて家庭でのダンス練習に音楽係で参加したのを手始めに大学でやみつきに、学校に付属していた向岳寮での毎水曜日のダンスに通ったもの。写真部の部費集めにPARTYを開催し在京の知り合いを集めまくったのはよかったが、多すぎて相手が出来ず非難を浴びた事もあった。タンゴ、ワルツ、ジルバが得意、就職後は踊るところも無く興味を失ったと言えば格好良いがチーク専門に。

学生時代にスケートは靴まで買って、新宿アリーナや赤城山頂まで滑りに行ったが、スキーには手が出なかった。 就職後会社の山岳部に連れていってもらいスキーを始めた。 県体で2位になってからのめり込み、バッジテスト1級に滑り込んでから、本当の1級の滑りがしたいとシーズンには毎週のように大山まで往復。 いまだに毎シーズン何回か満喫している。 ロッキーで滑るのが願いであるがどうなるものやら。

自動車免許を取ったのは昭和32年、ハンドルを握ると人格が変わる悪い癖があり、36年頃山口モータースポーツクラブ(YMSC)設立に参画し副会長に。 ジムカーナ主体にホンダS600で活躍。西日本・九州・四国での初回の自動車競技A級ライセンス取得したもののその後競技で転倒、結婚直後でもあり弱気になっては好成績は望めずリタイア。

工場長時代自分の体力増強にジョギングを思い付き、一人で走るだけの勇気無く、部下を巻き込む事を企画し「覇志労会」を設立。 希望者を募り現場休憩所に管理図を掲げ連日の走り込みを行った。 その後生産技術に配転になり頻度が減少、それでも秋になるとスキーのために夜間こっそりと走っていたが、大阪にきて中止。

ゴルフを始めたのは32才の時、社内のシングルに教えを請い、5#アイアン1本で3週間、スプーンを1週間かかさず打ち込んでスタート。課長になった時100を切るか切らないかの頃であったが、当時の所長からゴルフをすると言うのはハンディ18以下になってからと言われ発憤。 連日4kmの走り込みと打ちっぱなしを3カ月。1年後にハンディ8に。 最近は執念不足か粘りが無くホームコースの西ノ宮の公式ハンディ16と低迷中。 ハンディは始めた年の半分までは行くと言われておりこれが自然の姿かも。東京にきたころは、それでも時々は棒振りをしていたが、年金生活では負担にもなるので止め てしまった。

パソコンを初めて購入したのは1980年ごろ、同僚の小椋君と2人で秋葉原に出かけNEC8801を衝動的に購入。8ビットの最後のマシンであるが、データは手持ちのテープレコーダーを使用し、ディスプレイのみ、プリンターなどはサラリーマンでは手が出ないありさま。 雑誌からプログラムを丸写ししながらインベーダーを楽しんだくらいで、埃をかぶったままに。 1989年に新日鉄を退職したときに頂いた餞別をEPSON 280BookとCanon10vに投資。 NIFTYにも加入し、単身赴任の利点を生かしていたら、電話代が4,5万円とはまり込みました。

合同製鐵でシステムも管掌することになり、スタンドアロンで使われていたPCをLAN接続することにした頃からDOS/Vにのめり込んで現在に。

今では、知人にパソコンを薦めるのが趣味になり、私の組立て設定したパソコンが中国、近畿、東海、関東とあちこちで動いている.(活用されているかどうかはわからぬが、メールが来る所を見ると・・・)

最近はパソコンの利用法が進歩し、これに負けまいと周辺機器をせっせと増強している。 しかし差しこめば繋がると言った利便性はまだまだのようで、時折はまり込んでいるものの、“これまた楽し”の心境。(と言うよりそう思わなければやってられません)

パソコンも年々進歩し価格のこなれたあたりで部品交換し、何とか時代についていっている。新しい世紀に入る機会にCPUの更新を図り、見事はまり込んでしまった。所要部品をそろえて入れ替えるのであればこんな問題は起きないのだが・・・・・・。

モバイル 1997年からWINノートを持ち歩き、出張先から会社への連絡、報告書作成、資料作成、契約交渉の文書作成等に重宝していた。 タイへの技術指導の契約などFAXは使えず(先方に見られてしまう)メール方式が便利であったが、当時は日本に国際電話をかけて日本のアクセスポイントにアクセスする始末であった。その後はプロバイダがローミングを始めたので、そのためだけにプロバイダーに追加加入もして使っていた。 中国、台湾、タイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、インド、ネパールでGRICを使い現地のアクセスポイントにはほとんど問題なく接続出来ることを経験した。(ほとんどと言うのは繋らないアクセスポイントがあり、その場合には他のアクセスポイントにかけ直すことがしばしがある。また現地語によるメッセージが流れていたりもして訳のわからぬこともある)

最近は殆どの外国のホテルで、LAN接続が出来る。 ところが日本のホテルでは、なかなか接続が出来ない。2005年1月中国に行くとき朝早いので成田のホテルに宿泊したが、部屋からの接続はアダプタを使ってのダイアルアップとのこと、なおかつ接続アダプタは出払っていて使えず、携帯を接続してのアクセスになった。日本はネット接続から見ると中途半端な時代に作られたものが多く、グローバルに見ると遅れている。

パソコン環境 パソコンのハード環境はしょっちゅう変わるので、ここに最新の状況を出す事にした。

その他 1999年10月末SONYから AIBO の第2次募集が公開され、友人が名義借りまでして、応募しているのを聞いて、冷やかし半分にネットから応募した。子供も大きくなってなかなか言うことを聞かなくなってきたし、AIBOなら何事も文句なく聞くであろうという期待もあった。
ところが、当たってしまった。さあ大変年金生活にとんだ物入りになってしまった。 希少価値があるからと、納得していたのに、昨日(12月7日)SONYは量産を発表した。なんのこっちゃいこれは・・・・・・・・。
 


 

完成することはないでしょうが、時間と記憶の許す限り書き続けたいと思っています。 最終更新日: 2014/02/03