生い立ちから小学校
父は九大土木の出身で、卒業後内務省に奉職し、北海道稚内を皮切りに、那珂湊(茨城県)、片上・笠岡(岡山県)の土木出張所長を歴任した。その後上海郊外に新しい街作りのために、外郭団体 上海恒産が設立され派遣を命じられた。1939年に一家を挙げて渡航した。1942年に当時の日本製鉄が馬鞍山に製鉄所を作るに当たって、土木技術者を必要とし転職、
馬鞍山に単身赴任した。(赴任先は大冶と思っていたが、これは私の思い込みで、古い写真を見ていたら馬鞍山と書いた看板の写真が出てきたので修正した。2005/8/26)治安上の問題から家族同伴は無理であり、母と
私と弟の3人は1942年7月帰国し、父の本籍地福山市(広島県)に引越しをした。 馬鞍山製鉄所建設当時の写真をここに掲載した(2009/4/30) |
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古い写真帳を出してみると、両親が結婚したのは1933年那珂湊、私の出生は、岡山県和気郡片上町大字西片上1897番地の2となっている。 | |||
この写真が私の生涯で最初の写真であろう。 | ![]() |
この写真は片上なのか笠岡なのかが不明である。1歳半か2歳のころであろう。 | ![]() |
その後片上を訪れたことは無かったが、合鐵の関連会社に合同セラミックと言う会社があり、専務時代にはその会社の社外役員も兼ねていた。合同セラミックは備前市にあり、年に一度は訪問していたが、この備前市が片上だと知ったのは退社の挨拶に行った時のことであった。 父は、片上港の改修を手がけたと聞いていたので、港を見て土木業の成果は60年経っても世の中に残っているものとうらやましい気がした。 |
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上海では、当初市内のアパートに住み、16年5月ごろに新市街に転居した 。 | |||
旧市街麦拿里のアパートの前(1940)
50年後母と弟が上海を訪ね、この場所を探し見つけたのだが、その後1999年私は近所まで行ったが確定できなかった。 |
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新市街の自宅前(1941年5月)
都市計画で作られた町であるが、どの方角なのかさっぱりわからない。旧市街との間には軽トロッコが走っていたのだが。 |
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弟から1988年にしっかり見つけて昔の家にも訪問したという証拠写真が送られてきたので記載する。 |
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左の写真とほぼ同じ位置からの昔の写真である。私が住んでいた家に四家族が住んでいたとのこと。昔は高級アパートだったのだが・・・。 |
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アルバムには父の字で昭和16年日本人幼稚園卒業式とある。母の顔は判別できるものの、自分の顔は何回天眼鏡で見てもわからない。 | ![]() |
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昭和17年4月、新市街にある上海第七國民学校に入学。7月に帰国するまで僅か3ヶ月の在籍。 (第八と思っていたが、第七國民学校だった) | ![]() |
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当時の上海での写真 こちらに新しく補充しました(2005/8/26) 上海について追加しました(2008/9/20) |