上海時代の写真
(2005/08/26)

私のWEBの写真を見た、同時代に上海在住だった方(奇しくも工大の先輩)からメールを頂き、いろいろ記憶の欠如しているところを補っていただいた。 

頂いたメールをご本人の承諾を得て掲載します。

藤井 資也 様  (2005/08/23)

はじめてメールを差し上げます。貴兄のホームページについて上海中学の先輩である甫喜山さんから連絡があり、早速訪問させていただきました。

貴兄が上海の新市街に住んでおられ、工大の卒業生であることをはじめて知りました。たまたま小生も上海の新市街(平昌街)に昭和20年まで住んでおり、近くの第七国民学校を昭和19年に卒業し、上海日本中学に入学しました。20年の6月に旧満州国新京市(現長春)へ疎開し、昭和21年に帰国しました。上海は昭和14年に渡り、当時父は中支那振興鰍ノ勤務し、北四川路陸戦隊の近くに住んでいました。

帰国後は旧制中学、新制中学、新制高校を経て、昭和26年に工大の化学コースへ入学しました。ですから卒業は昭和30年で、今年4月に卒業50周年同期会を百年記念館で行いました。貴兄は金属ですから、小生と同期には、同じ高校から入った鈴木朝夫君(工大名誉教授)がいます。また、高校(都立国立高校)時代の仲間に、新日鉄の副社長をやっていた故大森 茂君がいました。

上海の新市街に住み、同じ国民学校(貴兄は第八と記憶されているようですが、写真を見る限り間違いなく第七です)に通い、学部は違いますが同じ工大に学んだというのは正に奇遇です。第七国民学校の同窓会は今でも続いており、年に1回集まっています。

懐かしさのあまりメールを書かせていただきました。なお、お父上の勤務されていた会社は上海興産ではなく、上海恒産で、新市街五条ヶ辻にあった登部隊の筋向いに恒産ビルという立派な建物があったのを記憶しております。もしかするとそこに勤めておられたのでは?

かってな事を書きました。ご無礼がありましたらお許し下さい。

藤井 資也 様  (2005/08/26)

古い記憶を呼び戻したり、資料を見たりしながら追加の情報を作ってみました。量が多いのでワードの添付ファイルに致しました。

早速のご返事ありがとうございました。貴兄のホームページ「自分史」をもう一度じっくりと読ませていただきました。これまでに得られている上海に関する各種情報、現地での調査結果等を合わせますと次のようになるかと存じます。

新市街(当時の住所は上海特別市中心区:通称五条ヶ辻)に作られた日本人住宅は、お父上の勤務されていた上海恒産株式会社が「大上海都市計画」を実現するために昭和14年に設立した子会社「振興住宅組合」による住宅です。設計は日本人の山本拙郎で、昭和15年から16年にかけて、全部で四つのタイプの住宅を建設し、それぞれ甲号住宅(明和街)、乙号住宅(平昌街)、丙号、丁号住宅(慶林街)と呼ばれていました。

私は昭和16年に北四川路敏徳坊から甲号住宅に転居し、翌年に乙号に再転居しています。学校も第一国民学校から第七国民学校へ転校しました。

第七国民学校は昭和16年6月に開校した上海で七番目の小学校で、貴兄の記憶にある第八国民学校は昭和12年の上海事変で壊滅した閘北(ザホク)(ここには上海最大の印刷会社「商務印書館」がありました)の東方図書館跡地に昭和17年4月に開校した、上海北部の学校です。第七国民学校は東京朝日新聞社の旧社屋を設計した石本喜久治の手によるもので、日本建築士学会の資料にも入っています。向かって左側に講堂兼体育館があり、中央付近の望楼が特徴的な建物です。戦後は上海市第二教育学院としてそのまま使われており、私も数回訪問しておりますが、残念なことに一昨年解体されてしまいました。

新市街の住宅いずれも空軍の住宅として使われていましたが、もっとも小さい甲号(15坪=2K)は早くに解体され、乙号(26坪=3K)が8年前くらいに高層住宅に立て替えられ、現在(平成12年現在)残っているのは最も大きかった丁号(50坪の一戸建て)だけです。貴兄の住んでおられたのは同期生の友人にも見ていただいた所、慶林街の丙号住宅ではなかろうかということです。明和街、慶林街の名称は現在使われておりませんが、平昌街だけは平昌菜場という市場に残されています

「五条ヶ辻」は現在「五角場」と呼ばれており、新市街の中心部です。上海市内からは四平路(昔は松井通りといってご指摘のように軽便鉄道[トロッコ]が走っていました)を北に行ってロータリーに突き当たったところです。途中左側に同済大学(旧上海日本中学校)があり、五角場には空軍政治学院三院(旧中支那派遣軍司令部=通称登部隊)、空軍政治学院一院(旧上海恒産株式会社=通称恒産ビル)の建物がそのまま残っています。

藤井さんは昭和10年のお生まれですから、私の弟と同じです。私の弟も上海のことはあまりよく覚えていません。昭和17年入学ですから、上海第七国民学校の7期生になります。入学式の記念撮影に写っている校長はまさしく山内作次郎先生です。右隣が教頭先生なのか担任の先生なのかこの写真では判然としません。もしかしたら私の弟も同クラスだったかもしれません。担任の先生、クラスのお友達の名前を覚えておられないでしょうか? 

第七だけの名簿(毎年改定)がありますし、第一、第五、第七、第八をまとめた名簿(平成14年版)もあります。また、第七の本年度同窓会は10月16日に浜松一泊で開催されます。もしご興味がありましたら幹事に申し伝えますのでお申し越し下さい。

上記情報が何らかのお役に立てば望外の喜びです。

メールに刺激され、手持ちの写真を掲載することにした。これを見てくださる方が居られると言うことが分かったので、写真はサイズを大きくした。

上海で最初に住んだ麥拿里(マグノリ)のアパート 昭和15年春

 

メールのやりとりから

> 旧市街で住んでいたところは、
麦拿里という街のようです。「拿」は父の手書き文字からの判別なので間違っているかもしれません。

 

麥拿里」と旧漢字で書き、マグノリと読みます。マグノリアに漢字を当てたものと思われます。北四川路にあった高級アパートです。」

建設中の新市街平昌街 ?)昭和15年

頂いたメールから

昭和15年建設中の新市街は、かなり高い建物から、また影の具合から見てお昼に近い頃に撮影されたものと思われます。当時新市街にあった建物は、建築中の第七国民学校(2階建て、望楼付き、昭和15年11月20日起工、昭和16年4月30日竣工)か、恒産ビル(3階建て、一部5階、起工・竣工日共に不明ですが第七よりは前のはず)です。光線の具合から南側から撮っており、右下の影がどうも望楼らしいので、第七の2階から平昌街方面を見ているものと思われますが確証がありません。この写真は今第七関係者に見てもらっています。

 

上海恒産のメンバーの記念写真と思われる

 

 

まずは、私の父が勤務していた会社名は、上海興産と書いていたが、その方からのご指摘で、上海恒産だろうとのこと、この写真はS17年7月1日上海から帰国したときのものであり、確かに上海恒産新都市軽便軌道となっている。(謝々)

 

ただこの写真には母と叔母と生後5ヶ月の弟は写っているが、私は写っていないのは何故だろう。

昭和17年7月1日

 

新市街で住んでいた家(73号)の前。

昭和16年春

メールのやりとりから

> その後アルバムを見ていたら、新市街の家の番号だけは分かりました。

この住宅は間違いなく平昌街です。正確には「上海特別市中心区協同路平昌街73号」です。
私の家が85号ですから、同じ並びの西側だったのですね(4軒長屋の3棟目)。

 

アルバムには

昭和16年春 73号の家

と書いてある。

バンド風景

頂いたメールから

バンド風景の下の写真は、パブリックガーデン(上の写真の公園、[支那人と犬は入るべからず」の立て札があったことで有名)から撮った黄浦江、浦東方面。

上海神社
恐らく婦人会の記念写真であろう

当時の絵はがき (2005/09/01追加)

このページを見た弟が秘蔵の絵はがき4枚を出してきた。恐らく父が購入し使用した残りであろう。 何故弟が持っていたのかは不明であるがここに掲載する。 カラー写真ではなく、白黒の写真に絵の具で色を付けたものを原板としたものである。 昭和17年に帰国の時写真館で色付きの記念写真を撮った。  その写真は見あたらないが何処かにあるのだろう。

 

市内風景

 

 

競馬場 昭和16年3月

(江湾競馬場?)

 

競馬場入り口にて

頂いたメールから

競馬場入口(裏門)に写っている左の高いビルはパークホテル。

 

 

ジェスフィールド公園

昭和14年夏

 

撮影場所不明 昭和16年

 

円形のトラックが見えるところを見ると、競馬場かドッグレース場からではないかと思われる

 

頂いたメールから

撮影場所不明の撮影場所はこのパークホテルの展望台で、道路は南京路。

 

 

 

この写真は反対側を見たもので、右側が競馬場、中央の大きな建物が大新公司(デパート)、道路は南京路です。

太洋丸 (S16/6撮影)

当時上海航路で最大の客船だった。1942/5/8に米潜水艦の発した魚雷により東シナ海で沈没した。
引用:サンダカン

長崎と上海を一晩で結ぶ所謂上海航路は、長崎丸と上海丸であったという。
引用:上海航路

アルバムには、太洋丸で帰国とある。母の里帰りの時の撮影らしい。

幼稚園の卒業式

小学校の入学記念写真 昭和17年4月

頂いたメールより

入学式写真で校長先生の右となりは多分石田先生、一番右端(前列)が佐藤先生だと思うのですが、友人にも確認を頼みました。少し時間がか かるかもしれません。