八島君の日記から

最近八島君から会津合宿を記した日記を送っていただいた。 この日記を読むことで、私が持っていた写真と関連がついた。
ここに、八島君から送られた日記と、私の写真でまとめて見た。

2005/12/17写真を再スキャンしてアップした

会津若松(融通寺)でのテニス合宿  昭和30(1955)年8月20(土)〜30(火)日
 記録 9月,但し途中絶筆,ワ−プロ 1996年1月
上野から夜行で会津若松へ(20・土)

◆20日午後11時40分上野発の青森行きに乗車。30分の余裕を見て上野駅に到着したが、既に開札中で列車は超満員。
1年生我々6人を含めて全部で12人、落ち着かないままにトランプなどして1時頃までざわつく。
流石に眠気を催し、新聞紙を床に敷いて横になるが、それこそ足の踏み場もない窮屈さで寝付きが悪かったが、それでも何時の間にか寝込んだ。

◆21日6時半頃、約40分遅れての郡山到着の為に予定していた新潟行きには乗れずに、ここで約30分待たされて次の列車に乗る事になった。顔を洗い、アンパンを3つ買うが餡がちょっと危ない気もしたので餡は捨てて食べた。
新潟行きは座席充分で、この頃になって急に眠気が出て来た。列車は大分登り勾配らしく耳がガ−ンとする事もある。山の天気はこうも変わり易いものか!と思わせる位不順で、10分行くと雨が降っているかと思うと、5分も走らない内に晴れたりした。

会津若松到着(21・日)

◆9時頃漸く目的地の会津若松に到着。郡山の駅前は最近区画整理でもされたのか、実に広々とした感じを受けたが、会津若松の駅に降りると「狭い田舎町」の第一印象であった。
駅前の大きな看板にプロレスの力道山やオルテガの等身大の姿が描かれてあったのが大きく目立ち、今頃こんな所でドサ廻りをしているのかと思ったが、プロレスが好きらしい上級生の誰かが「試合が行われる日まで合宿を延ばそう!」などと冗談を言ったりした。
そうこうする内に、駅から通じている只一本のメインストリ−トを5、6分歩き、一昨年合宿した連中が色々話題を作ったという“若食”を右に折れて融通寺に到着。駅から近かったので9時15分頃だった筈。

◆「融通寺通り」という名前の通りが市内にあるが、融通寺そのものは「大町通り」にあり、随分古いお寺らしく、本堂はまだしも母屋の方は柱の上下が一、二寸ずれており、我々が泊まるにはいささか危険だと思った位だった。
また、どうも僕には帰巣性が乏しいのか、郡山から汽車に乗っている内に方向感覚がおかしくなってしまい、融通寺を見た時に「あれ?この寺の本堂は北向きだな!」と不思議に思って話題にすると、「ちゃんと南向きじゃあないか」と皆から笑われてしまったが、どうしても東西南北が逆に思えて仕方がなかったし、帰る時まで同じだった。
兎に角、立派な松のある庭に面した15〜20畳位の部屋で一息ついて、麦茶と煎餅を食べながら色々ダベッている時、「新潟からジ−ゼルカ−の快速列車で来たんだ。」とマネ−ジャ−の切貫さんが到着し、それから練習方法や1年生のポジション決めの話となり、僕は後衛という事になった。その後、前夜の汽車で睡眠不足だったので暫く横になりたいと思っていたが、衆儀に従ってバスで東山温泉の千人風呂に出掛けた。

◆千人風呂は川に面した大きな温泉で、入口は男女別々の脱衣所だが、風呂は広々した共通の混浴で期待したが、我々が入っていくと反対側から女性は上がってしまうという風だった。
 後になって、到着が遅れた藤井さんは非常に残念がっていたが、二枚目でキャプテンの菅生さんが「東北弁丸だしのオバアチャンや子供、それにオッチェンばかりでがっかりした。」と千人風呂に行けなかった藤井さんを慰めていたっけ。
温泉を出るともう正午近く昼飯の時間だったが、この辺は温泉街で高いだろうと市内に戻ってからという事になった。折角カメラを持って来たのになかなかシャッタ−を切らなかった宇井さんが、始めて川の袂で我々を写して呉れた。土産物店を冷かしながら停留所まで来てバスに乗ったが、天気が今にも崩れそうだったので、練習するコ−トを見てから帰るか真っ直ぐ帰るかという事になったが、兎に角全員グランド前で下車した。

◆丁度、都市対抗のテニスが開催中だったので、これは是非見て行こうという事になったが、入場料が50円も取る事が判って意見が分かれた。キャップやマネは参考になるからとの事だったが、大熊さん、宇井さんそれに僕と杉山は街を見物しながらブラブラと帰ってきた。
途中で雨がポツリポツリ降り出したので、慌てて食堂に駆け込み80円也のカツ丼を頼んだ。
御飯もカツもスキッ腹だったのでとても旨いと思ったが、食べる程に塩辛さが強いのには参った。
いわゆる田舎料理というのだろうが、おまけに店の親父が蠅叩きを持って出て来て我々の食卓といわず何処といわずバタバタ殺すので、飯の味も半減してしまった。

◆雨の中を寺に帰ると、温泉につかり満腹になってすっかり眠くなりうとうとした。どの位時間が経ったのか、がやがやという騒々しさで目が覚め、雨の中をほかの連中が帰ってきたのが判った。折角金50円也を出して入場したのに雨で中止となり、途中で食べた60円の支那そばも生煮えでまづく、雨がひどいのでタクシ−で帰って来たとの話で、「我々は先見の明があった。」と大笑いになった。
急に部屋の中が賑やかになり、あちこちで将棋、トランプ、花札が始まった。トランプなぞおよそつまらないものと思っていたが、ナポレオンとかいうのを面白そうにやっているのを見て羨ましく感じ、僕も 仲間に入れるよう知る必要があると思った。
このお寺の庭には空池などもあり奥行きは深くはないが、特に樹齢250年と自慢している松が雨に濡れた風情は素晴らしかった。

◆この晩は前日の夜行疲れもあって、大して騒がずに寝床に入った。東京に比べると流石に涼しいが、それでも蚊帳を釣ってないので、虫が飛んで来てちょっと鬱陶しかったが忘れた。
寝入った所、突然の何かで起こされた。何と何時の間にか来ていた岩田さんが虫よけと称して我々の顔にDDTを散布し始めたのだった。いたずらにしても少々度が過ぎると思ったが、一人でゲラゲラ笑っているのだから話にならない。岩田さんは病気のため寮で寝込んでいたが、高瀬さんと一緒に今日上野を出発して今晩到着した筈だった。

 練習初日(22・月)

◆昨晩は寝巻きに毛布1枚で寝たが、夜中に大分冷えて隣の宇井さんに毛布が取られないように頑張ったのをおぼろげに覚えている。
東京ならば8月20日頃といえば未だ暑い盛りだから、5〜6度は気温が低いのかも知れない。
それ丈に朝の冷気は誠に気持ち良く6時半起床予定を6時頃には起き出して、表でラケット振りなど張り切っていたが、高瀬さんのいつもながらの綺麗なバックスイッグの練習が印象的だった。

◆コ−トへの往復は、朝は皆一緒にマラソンで。という事になっていたが、第1日目は皆力んでしまい競争になってしまった。しかし、実際に毎日駆け足をして見ると練習の疲れも出てきて、コ−トまで意外に遠くウンザリしてしまい、4日目当たりからは仕方なしに駆けるという風になった。多分時間的には20分前後のマラソンだったのだろう。

◆コ−トの良し悪しはよく判らないが、環境だけは申し分ない場所であそこで気持ち良く打てたら、それこそ桃源郷に入った気分がこうであろうと思える程だった。
鶴ガ城の城門を入り少し降りた所で、お堀に面した高い土手の背後にあって、土手の上には巨松が何本も茂り、あづまやがあった。その反対側もやはり内濠に面しているので、馬車馬と称されている高瀬さんや宮本さんなど『俺たちが打ったらボ−ルがお堀に落ちはしないか?』と心配していたが、結局合宿終了までに渡辺の打ったボ−ルが一回落ちたのみだった。
休憩室に入ると、そこに各大学夏期合宿予定表なるものが張ってあり、最後に「市内高校生諸君の参観を期待する。」と書いてあったので、我々は自分らの実力を知っているだけに一同で大笑いした事があった。

◆さて、我々は4面並んだコ−トの内、2つを使用した。(他の2面では会津市内の選抜高校生達が国体の県予選が郡山で開かれるのに備えて練習していた。)30分乱打、30分サ−ビス``などと1日を細かく上級生達が計画を立てたが、力んだマラソンで疲れて第1日から計画通り実行出来ない有り様だった。
夏休み以来ラケットを全然握らず、しかも昨日の雨でグランドコンディションが良好とは言えなかったので、何だか全然当たらなかった。
10時頃藤井さんがコ−トにやって来た。「来る時の汽車の中で1年生と一緒になったが、彼は今寺で寝ている。」との事。藤井さん達の乗った夜行も大分混んだそうだが、到着して早速コ−トまでラケットを担いでくる所、流石に藤井さんらしいと思った。

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 練習スケジュ−ル等(22〜27日)

◆午前中の練習を11時半に終わり、昼飯を食べに帰り2時半迄昼寝して、3時から6時半までやるのだから、1日7時間もの練習時間になり、その上寺−コ−ト間を2往復するのだから、前日の疲れを取り戻さない内に、次の疲れが重なるという風だった。
しかし第3日目からは、午後はゲ−ムの運び方をやったので疲労はそれで止まり、以後団体生活の惰性で何とか1日も休まずに合宿を終える事が出来た。
また、夜も随分涼しくなったが、蚊の襲来には悩んでいた所先輩の森さんという人(東京電力・猪苗代発電所)次長)が蚊帳を2つ貸して呉れたとの事で安眠出来るようになった。
(29日の体重測定では14貫100匁だったので、普段より400匁程痩せた訳だった。)

地元選抜高校生との試合(27日)

◆27日は朝から降り出しそうな天気だったが、結局練習の終わる夕方まで天気は持った。
この日、隣のコ−トで練習していた高校生達から「今日が最後なので、練習試合度胸をお願いしたい」との申し入れがあったそうで、5チ−ム9セットマッチを行った所、皆ストレ−トで負けてしまい、練習疲れで、コンディションが良くなかったにせよ顔色がなかった。
これには後日談があり、29日泊まった東北電力の寮でその日の新聞を見ていた所、国体県予選の記事が準決勝戦から載っていたが、我々を負かした市内選抜チ−ム名は無かったのでそれ以前で負けてしまった事が判った。この時改めて工大のレベルを認識した次第。

◆雨が降り出した夕方ぶらぶら濡れながら帰って来る途中、何とかいう製菓会社の中型宣伝カ−がゆっくりと走って来たので、「誰か全権を派遣して交渉しよう!」などと大声で怒鳴っていたら、向こうで気を効かして我々を乗せて呉れるという嬉しい出来事もあった。
運ちゃんの話す所によると、今年神奈川大学を卒業したとの事。工大が大岡山にある事など良く知っていて、なかなか話の判る好青年だった。
旅先で自分らの事を知って呉れる人がいると、こうも嬉しいものかと思った位だった。
私の写真にはS30/8/28とあるが、日記では当日の練習は止めたとの事で、日付が違うのかもしれない。

左端がお寺の和尚で、前列の並び方に指図が多かったように記憶している。

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 融通寺から東電寮に移動(28・日)

◆28日夕方からは地元の先輩とのコンパがあるので、「練習をどうするか?」のご下問がキャップやマネから出されたが、「幾分ダレ気味の現在、今更1時間近い往復時間を掛けて2,3時間の練習をしても仕方ない。」との結論になり、この日の練習は午前午後共中止となった。
午前中は市内見物をゆっくりしたり、帰り支度や切符を買いに出掛けた。昼飯を済ませ1時頃融通寺にお別れをしてから、飯盛山の白虎隊の墓を見物する事にした。

◆飯盛山は駅から5,6分、白虎隊の悲惨さより、むしろ説明のおばさんのぺらぺらとした舌の回転に恐れ入ってしまった。お墓が妙に多いなと思ったら昭和三十年没なんていう新しい墓が沢山加
わっていた為だった。売店で白虎隊の詩吟入りの歌のレコ−ドを流して貰って覚えようしたが、よく覚え切れなかった。
◆飯盛山の真っ直ぐな急階段を下って来て、バス停留所でハワイ遠征の選抜高校野球試合のラヂオを聞きながら約1時間程待って漸く東山行きのバスが来た。東山で降りて東京電力へ行く道をぶらぶら歩いて行く時、一人の年配の盲人が土地の人に道を尋ねている情景にぶつかり、「ひょっとして先輩ではないか?」とキャップが気を効かせて、その話の中に入って行った。
僕は「よもやそんな偶然はあるまい。」と思ったが、案に相違して工大の先輩で今晩のコンパに出席する人である事が判った。
杖を突いた盲目の先輩が後輩である我々のキャップに手を引かれて歩いているのを見て、思わず感激に似た寒気を覚えた。この先輩は二里先の何とか村からやって来たとの事だった。
東京電力の寮は比較的こじんまりとしたしもたや風だったが、何日ぶりかの透明な温泉に入れたのは素晴らしかった。実際、昨日まで行っていた融通寺近くの風呂屋は10人で出掛けたら一杯になるような狭さで、湯船のお湯は遅くなるとぬるくてしかも油が浮いているような感じになっており、ニモさん(仁茂田)なんかはとうとう湯船には入らなかった程だった。

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キャプテン菅生さんが右端というのはわかっていましたが、なんでこの写真を撮ったのかは忘れていました。

 地元先輩とのコンパ (28日・夕方)

◆1.先輩達が三々伍々集まって来たとの事で我々は早めに温泉から上がって、会は5時半から行われた。司会は終戦当時まで満州に渡り満鉄で思う存分仕事をして来て、今は会津工業高校で教師をしているという田代先輩(昭和4年 機械卒)が行い、冒頭の挨拶を日本曹達会津工場長で取締役の戸田忠良氏(昭4 電化)と我々に蚊帳の手配をして呉れた森知武氏(大14年 電気卒) が行った。
 戸田さんの息子がやはり工大の化工の2年にいるとの事で、授業を一緒に受けている藤井さんは「あいつとはとても肌が合わない。てんで真面目な奴だ。」と後で話していたが、親父さんも物静かな人だった。それにしても従業員2000人の長となるのだから大したものだ。
 森さんも貫祿充分な話振りだし、中々さばけた所があるようだった。
その後、ほかの先輩達の自己紹介があったが、会社所属では日本曹達,昭和電工それに東北電力の人達。また、自営の人も何人かいたが、吉田一栄(昭20 窯)という人は会津屈指の金持ちの若旦那だと田代さんが補足していた。

◆2.いよいよ我々の自己紹介の番が廻ってきて、人の前に出るとすぐ緊張してしまう性質の僕は最初は嫌ダナ−と思ったが、既に酒の酔いが廻っていたのでぺらぺらやったら「末恐ろしいネ−」と
冗談を言われた。「ここへ来る前に立候補した父の応援演説をして来たから」と答えると「道理で」という事になった。(しゃべった内容要旨:7P記載)
僕の右隣の渡辺は先輩の横に座ったものだからそちらばかりに気を配り、左隣の門奈は酒を飲めないものだから一人でムシャムシャ食べて、僕に酒を注いで呉れる奴がいないので仕方なく自分で注いで飲んだ。
貫さん、キャップはさすがに世慣れていて、席を立って先輩の所へ酌をしに行くから偉いものだ。
僕などどうしても自分の座に座ったきりで、両隣としゃべるのが精一杯だが、もっと社交術を心得て酒席での礼儀もわきまえねばと思った。

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この写真の裏には、宮本、高瀬 吐く!
キタナシ、クサシと書いてあります。

◆3.大分賑やかになった頃、学生を代表してキャプがコンパで何度か聞いた事のある「ガマの油」の口上をやった。自ら「頭はよくないが、多趣味、軟派」を自称している二枚目で、頼もしく羨ましく思った。
次いで、先輩・学生一緒になって学生歌を歌ったり、億万長者の若旦那が会津磐梯山を、戸田さんが何か唸り出し、森さんが秋田訛りで「加藤清正三本槍で虎を突く、今の若い者は``。」と威勢もよいが、やわらかい内容の秋田音頭を指導して呉れたりした。

◆4.負けじとばかりに、学生側も一辺に落として、例の軟庭部歌と称するやつに入って、まづ岩田さんが例によって「額田の大主の和歌」を高々と朗詠し、皆で怒鳴り始めた。大熊さんが馬鹿に気持ち良さそうに合わせていたっけ。
散々歌を怒鳴った後は、また先輩との雑談になった。

◆5.この蔵前工業会の会津支部は例年合宿に来る学生と共に年1回の会を催すそうで、去年は硬庭が来たそうだが、先輩達が口を揃えて「今年の学生は皆元気がある!。」と褒めて呉れた。蔵前が大岡山に移った当時の学生生活や先生,校舎の様子、テニス部の活躍などを聞かされ、そろそろ話も収まって来ると先輩達は帰り出した。
目の悪い大久保さんだけは我々と一緒にこの寮に泊まったが、階上の部屋に行ったようだった。

◆6.我々はお膳を取り払った座敷で、融通寺の最後の晩に教わった会津磐梯山を踊り出すなど、まだ大分気持ち良く酔っぱらっていたが、それも面倒になると川に面した庭に出てブランコに乗って夜風に吹かれたり、寝床にゴロッとなって寮に置いてあった他愛のない本(サザエさん、トドロキ先生、酔人酔筆等)をひっぱり出して来て読んだ。

◆7.その内キャップ, 岩田さん, 大熊さん, 宮本さんがマ−ジャンをやり始めたが、途中で宮本さんが小間物屋を店開きしてしまうと、それまで熱が出て寝込んでいた藤井さんがむっくり起き出して宮本さんに代わり馬車馬ぶりを発揮した。連中は1時頃までやっていたらしいが、僕は久し振りに熟睡した。
 只見の発電所見学(29・月)

◆1.翌29日、朝食は昨晩のご馳走と同じような豪華さはなく、海苔,味噌汁,香の物にどんぶり飯で質素だった。
我々の食事が終わりかけた頃、「バスが到着済みだから。」の事で昭27年電気卒の中沢さんが出発の督促に来た。今日はこの中沢さんが一日我々に同行して発電所を案内して呉れる事になっていた。練習疲れの身体で、皆思う存分飲んで食って騒いだものだから、効率100%ですっかり寝過ごしてしまい出発予定時間が迫っていたらしい。
その上、東京電力の社員がこれから部屋を使うとの事で、我々は慌てて荷物を隣の東北電力の寮に移してから迎えのバスに乗り込んだが、約20分程遅れての出発だった。
バスは東北電力の大型観光バスで、東北電力早E会津電力事務所の田中次長(昭27 電)の配慮との事だったが、我々15人だけで利用するには勿体ない感じで先輩というのは有り難いもんだと思った。
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◆2.途中会津駅前で大久保さんとキャップが先に帰るために降りると、バスは会津盆地の田圃の中の道をフルスピ−ドで走り、只見川の鉄橋を渡り、新潟まで100kM(?)の道標をチラッと見ながら、次第に登り坂にさしかかった。そこから道はジグザクに蛇行し始め、しかも登り、下りが繰り返すようになり、こんな道を利用してダム建設資材を運んだとなると悪天候の時など随分危険ではなかったかと思われた。
◆3.見学した発電所は片門、柳津と名前は忘れたが東洋一とかいう揚水発電所であった。
最初の片門発電所は完成してから2年位しか経っていない新しい発電所で、御殿を思わせる立派な建築だった。エレベ−タが5階まであり(尤も5階というのは川岸レベルで1階は川底の方)、建
物の外壁はクリ−ム色、内部の大空間は全て水色で塗られて所長室の一面は総ガラス張り、ちょっと首を出せば遙か下を青々とした川が流れているといった風で、豪華なクイ−ンエリザベス号の一等船室にでも収まったらこんなゆったりした感じなのかナとも思った。
ここから更に只見川を上流に遡り柳津発電所に着いた。ここは戦争中に建設されたとの事で、やや古びており、終戦後更に増設されたそうだが、最初に新しい建物の発電所を見たのでもう驚かなかった。
片門の発電機類は日立製でここ柳津は東芝製との事で、重電はやはり日立・東芝なのかも知れないと思った。また、この柳津には東京の本社と直接通じる新鋭の無線電話設備があって、それは富士製品との事だった。

◆4.ここの発電所の掲示板にマ−ジャン大会とか囲碁大会の案内が張ってあったが、案内して呉れた中沢さんによると発電所のよいのは最初の内だけらしく、年中発電所にいて魚釣りなどしてくすぶっていたのを、先輩の森さんに引っ張られて市内の電力事務所に転勤したとの事だった。

 「合宿」での昼食

◆1.2つの発電所見学を終えると、バスで折り返して「合宿」という場所に行き、ここで昼食を御馳走になった。そこは山合いの狭い平らな場所に、集会所である畳の大広間のある木造建物を中心にして幾棟かの木造長屋式の社宅が並んでいるだけだけの地域で、人気が殆ど感じられない静かな場所だった。
僕の心の何処かに山奥の発電所で何の苦労もなく誰にも知られずにのんびり暮らしてみたいという逃避的な気持ちもあるが、中沢さんの言うように現実的には刺激の少なさで良いと思うのは最初だけかも知れないナという気になった。

◆2.昼食のおかずに馬鹿に長い焼き魚が出されたが、よく見るとこれが秋刀魚だったので、皆びっくりした。秋刀魚のにおいがするような千葉っ子が何人もいるのに、こんな山奥で秋刀魚の初物を食べるとは夢にも思わなかったからだった。
また、味噌汁が何故かとても旨かったので2杯目のお代わりをお願いした所、蓋を開けた大きなアルミ鍋の中にゴキブリのでかいのが死んで浮かんでいるのが目に入り、急に食欲が萎えた。

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片門ダム

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沼沢沼の揚水発電所

 揚水発電所の見学

◆合宿を出てから柳津発電所から更に上流へと遡り揚水発電所に着いた。わざわざ多くのエネルギ−を使って水を汲み上げ、その水で再び電気を起こすというのはよく判らなかったが、何でも500m高い湖に水を貯えて置き、渇水期などに発電させるという補助的な使い方をするらしい。従って自己電源を持たず、柳津から送電線を張って事故などの場合には電力を供給して貰うとの事だった。
黒く塗った太い鉄管が2本山腹をずっと見えなくなるまで上に向かって敷設されている様子は一寸壮観だったが、管の接続部当たりで水が噴出しているのは「これで大丈夫なのかしら?」と不安に感じた。我々に説明して呉れた発電所所員が「何でもこの山の地盤がゆるんでいて、毎年山が少しづつずれているそうで、もし、そのためにあの鉄管が破裂でもしたら発電所毎流されて我々の命は全く見込みないですョ」とやや自虐的に話していた。

 東北電力の寮に帰着

◆1.初めての発電所見学で3カ所も見たのでおおよそ似ている所が判ったが、この後は今来た道を引き返すだけで、バスに乗り疲れた感じで時々ひどい揺れで起こされるのを除くとずっと眠ってしまい、会津若松の市街を通り抜けて帰着地の東山にさしかかる頃、漸く目が醒めた。時間は4時前後だったろうか。

◆2.今晩は昨日泊まった東京電力寮の隣の東北電力の寮に泊まる事になっていた。早速浴衣に着替えて温泉に入ると、今日1日案内をして呉れた中沢さんもいてお湯につかりながら色々話を聞かされたが、どんな話だったかは忘れてしまった。
この寮は隣の東京電力寮よりも新しく大きかったが、他にお客さんがいるので上級生5人は日本曹達の東山寮に移ったとの事で、僕が温泉から上がった時には既にいなかった。
この時に体重を測ったら普段より400匁減った事や、久し振りにゆっくりと新聞を見ていたら国体県予選の記事が出ていた事も既に書いた通りだった。

◆3.気持ちよく温泉につかった後、我々は新聞を見たり囲碁をやったりで夕飯を待った。ニモさんに教えて貰い覚え立ての僕は、「今まで5回位しかやった事がない。」という渡辺と3回やって2勝1負だった。しかし、そばで見ている連中はお互いの下手さにゲラゲラと笑っていたが、下手なりに何となく碁の面白さが判って来たようにも思った。
我々の時間つぶしのへぼ碁が3回済んで皆腹ぺこになっても、まだ夕飯の出る気配はなかった。我々は切貫マネに交渉に行って貰うよう頼んだが、「督促に行ける立場なんかじゃないヨ。」と諭された。
そこで、我々は我々の存在を階下の台所の女中連中に知らせるべく、大声で歌を怒鳴り始めた。
この時、題名は忘れたが「丘呼ぶ叫び高らかに``」という歌詞で始まる昭和4,5年頃出来たという学生歌を上級生から教わった。
しかし、歌を歌うと腹は益々減るばかりだし、しまいには静かになってしまった。
8時頃になってからだろう、漸く女中が夕飯を持ってきたが、卵に乾海苔、香の物に味噌汁それにどんぶり飯という昨日の朝食に卵だけ余分についた簡素なもので、いささか物足りなかった。

◆4.ものの5〜6分で食べ終わると散歩に出掛けた。我々1年生と2年生の高瀬さんが一緒に行った。
高瀬さんは機械コ−スで、出身は栃木県の大田原高校、言葉にとても強い訛があっていかにも朴訥風であるが、意外にさばけており隅に置けぬ人らしかった。
工大入学後、早速ダンスを習い、マンボとやらがはやりだすとすぐに講習会に出掛けるという風だ。
テニスも上手で、あの馬力のあるラケットの振り方には隣のコ−トで練習していた高校生達も目を見張っていたようだった。
この高瀬さんを筆頭に我々は東山温泉の目抜き通りの土産物店を冷かして廻った。文字通りのひやかしで誰も自分の氷一杯分しか出せない程度のお金しか持っていかなかったのだから。
まづ一軒目。
  
   以後 絶筆 
 
地元先輩とのコンパ(P4.)での自己紹介
僕は1年浪人して、1年間早稲田に通っていました。早稲田という所は何かといえば『都の西北』を歌い出す所で、先輩・後輩のつながりが強かった。そして工大に入って見るとこの点が非常に心細く、実を言えば、工大に入った事を少し後悔していたのだが、授業料が安い事をせめてもの諦めとしていた。しかし、こうして軟庭部の一員として上級生に近づく事が出来、まして合宿先という思いがけない場所で先輩が歓迎してくれた事に非常に感激した。どうぞ今後も宜しくお願いします。

〔注〕
 1996年1月25日夜、同期で富士電機に入社した杉山から電話があり、27日蔵前工業会館で軟庭部のOB会(白丘会)があり、出席しないか?との誘いがあった。
1,2年生の時はともかく、3年ではヨットの合宿に参加して退部した恰好の小生としてはちょっと逡巡したが、仁茂田が三原からわざわざ出て来るとの事だし、前にSRGCで一緒の大沢(1年後輩の機械卒)からも同じような話を聞いた事があったので、卒業以来始め
て出席する気になった。その為に、古い日記帳を押入れからひっぱり出し、合宿記録があったのでワ−プロによる整理を行ったもの。26日に5P途中まで打てたので、4Pまでを4部コピ−して持参した所話題になり、記録は途中までだったが、完了させた。
 日記が前提だから言葉使いなどまづい点もあるし、且つ、今読み返すと「随分と若いナ。」と思う部分があったが、原文を忠実に残した。

この日記を転記して送付願った八島荘一君のメールアドレス:syashima@mb.infoweb.ne.jp