第1線材工場

八幡製鉄株式会社が、始めて八幡以外の地に進出したのが、山口県の光海軍工廠の跡地であった。 工廠は終戦直前に空爆され廃墟になっていたが、昭和28年ここに八幡製鉄と武田薬品工業が進出を決定した。
1haikyo.jpg (45253 バイト) 昭和27年10月撮影

廃墟となっている海軍工廠跡地

右が島田川

左にまっすぐ伸びているのは中央道路

左下が正門

海軍工廠は、当時としては画期的な思想の下に作られており、中央道路は緊急時の滑走路になるよう強化されていた。

また構内の動力配線は全て地下に暗渠が作られており電柱の無い工場であった。

海軍工廠は昭和15年に開設され、製鋼工場、砲熕、水雷、爆弾工場が操業していた。 砲身、魚雷の鍛造、熱処理設備を持ち、最盛期25000人が働いていた。
この25000人の殆どは近隣地域から動員された人たちで、市内には従業員用の宿舎(長屋)が沢山あり、戦後外地から引き上げてきた人で、すむところの無い人は、光に行けば少なくとも住む所はあるよ、と言われて辿りついた人が多かったとのことである。

第1線材工場

当時八幡に建設を予定し機器の発注も終わり、基礎工事を始めていた線材工場を光に設置する事に変更し、急遽昭和28年10月に現地起工式、30年1月に加熱炉の火入れ、5月に初出荷を行い光製鉄所が産声を上げた。
この線材工場は、世界で始めて線材圧延を全連続に圧延すると言う画期的な圧延設備です。 直線配列、電気制御の導入、縦ロールの採用などなど世界の圧延技術をリードする最新鋭設備であった。

この思想(最新鋭の技術への挑戦)はその後も受け継がれ、光製鉄所は鉄鋼製造にかかわる新技術の実用化の開発が盛んに行われた。

線材圧延の技術は、端的には仕上げ速度で表されるが、人間が箸で掴んで誘導する従来法の速度が8〜10 m/secであったものが、このミルでは24m/sec(時速86Km)であった。 #現在は120m/secになっている
圧延速度が上がると、圧延中の鋼材温度が下がり難いので、単重の大きい材料が使える=1コイルの重量が増える=需要家でのハンドリング回数が減少すると言うメリットがあり、それまでの80Kコイルから300Kコイルが産業界に与えたショックは大きいものがあった。

ミルの紹介

furnace.jpg (34263 バイト) 重油燃焼の上下3帯式連続加熱炉。

始めて炉の下部にバーナーをつけた炉であったが、鋼材を支える水冷式の柱が時々水漏れをして、苦労したもの。

プッシャータイプで横から押して材料を移動させる方式であるが、温度を高めると鋼材同士が溶着し、1200℃の鋼材に近寄りハンマーで衝撃を与えて離す事しばしばであった。

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加熱炉から出た鋼材が最初に通る粗圧延機列

一本のロールを同時に4本の材料が通る世界初の4列同時圧延機でした。

この鋼材が、うまく次のロールに入らない時には、ロール間で団子になったり中天高く舞い上がったり床をのたうったりします。

最初はロール間に誘導装置があったのですが、改良を加えて、最後にはこのようにすっきりさせて事故が減りました。

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仕上圧延機列には縦ロールが使われました。

圧延機のモーターは当時としてな画期的な水銀整流器を使った直流モーターで、回転数の微細な調整や、鋼材がロールに入る時の瞬間的な速度低下に対応するようになっていました。

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巻き取り機で巻かれた線材は、このように冷却されながら運ばれ、コンベヤーに掛けられ、倉庫まで自動的に運びます。

線材工場技術員時代

gijutuin.jpg (37176 バイト) 私は、入社後この線材工場に配置され、1年後には3交代技術員として、部下の指揮と自分の技術の研鑚を行った。

この時の経験がその後の私の基盤になった貴重な財産である。

この写真は線材工場休止式に、当時の3交代技術員と掛長、常昼技術員が集まったので、往時をしのんで撮ったものです。

八尋係長、浜崎(常昼)、雨川(後に三協精機副社長)、松岡(後に日鉄電子副社長)と私

稼動当初は、まず設備の稼働率を安定向上するために、機械、電気、制御の専門家が工場に直属し、木目の細かい改良、改善を進めていた。 しかしながら、最初は材質を要求されない品種が主体であったため、材料屋はいなかった。 操業度が上がるにつれて、品種拡大が必要になり、材料屋が求められ始めたときに私が配属された。

自然に高速圧延に由来する材質の調査と、ソフト面からの操業の安定向上が私の役割になった。 後に製造品種を拡大することになったとき、この時の経験が役に立ったこと、ソフトには人間(性)が関与する比率が高く、これに取り組んだことも得難い経験の場が与えられたと感謝している。

ミスロール低減への挑戦

線材工場の技術レベルは、まずミスロールの発生率で評価される。 圧延しようとした材料本数と、成品にならなかった材料本数の比である。 高温の細〜い鋼材を高速で次のロールの穴に確実に位置決めをして通さないとミスロールになる。
入社1年後に3交代監督さんになった頃の、ミスロール発生率は2.5%程度であった。1交代8時間で約1000本の材料を圧延するので、平均25本がミスロールになったことになる。 雨川、松岡両先輩と3人での交代勤務であったが、先輩の申し送り簿に、ミスロール38本概ね良好などと書いてあったものである。
4列同時圧延、21スタンドの構成で、84のカリバーを使いその前後のガイドが168セット、ロール間の誘導装置が84個所と言う気の遠くなる数の発生個所。 通過鋼材から見た発生場所も材料の先端での発生、途中での発生、最後のしっぽでの発生とあり、 その他、圧延温度、電圧変動、品種による鋼材変形能の差によるものなども足を引っ張った。
お定まりの方法で、場所別原因別に層別し一つ一つ原因対策を立てて行くのであるが、設備的に改良改善するものは比較的簡単に結果が出るが、人間が関与する“調整”に関わるものは技能の問題、即ちスキルの問題で、3交代3組間、同じ組でも担当者によってやり方が違い、再現の頻度が低いことも相俟って結論が出しにくいものであった。 例えば隙間の調整を取ってみても、ゲージを作りそれを入れて計れば良さそうに思えるが、膨大な数のゲージ、保管管理、その都度ロール回転を停止する手間と時間を考えると実際的な方法ではなくなる。
別の所に記載しているが、このスキルの問題(暗黙知)は、関係者全員で自分の考えを出し合わせ、何通りかのやり方を決め、一定期間は決めた方法のみで作業をして結果を見ると言う方法で、一つ一つ実践確認をしながら標準化(形式知)としてまとめて行った。 その後も工場関係者のたゆまぬ努力で、この賽の河原の石積を丹念に継続した結果、ミスロールは37年に1%を切り、46年には0.1%を世界で始めて下回ることが出来たのである。
misroll1.gif (2597 バイト) 左図に年々のミスロールの発生率を、対数目盛りで示すが、国内トップの地位を(言い換えれば世界一)築き上げ、守り通した関係者の努力に尊敬と敬意を持つものである。

工場の休止

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こうして世界の線材圧延の歴史を書き換えた光の線材工場も、オイルショック後の社の合理化計画により休止することになった。 たまたま、私は所の技術行政を担当する技術調整課長の時であり、本社との交渉の窓口であり、粘りごしで対応したが、社の方針に逆らえるものではなかった。
lastroll.jpg (35949 バイト) 最後の1本の圧延を指示する坂尾工場長

鉄の世界に踏み出した時に担当した工場であり、休止式の列を離れ、最後の1本の圧延を加熱炉から捲取まで並んで走り別れの気持ちとした。

 

青木所長挨拶

休止式での所長の挨拶は、当事者として胸を打つものがあり、ひそかに原稿を入手し、保管していたものを下に掲げる。

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1.はじめに
第1線材工場の圧延休止式に際し、一言ご挨拶申し上げます。
ご多忙のところ、石原取締役をはじめ本社の幹部、工場の諸先輩、ならびに所外からの関係の方々多数御列席をいただき心から厚く御礼申し上げます。
ご承知のように、第1線材工場は我が国初の全連続式線材圧延機として、亦光製鐵所の第一番目の工場として、昭和30年5月から稼動を開始し、その後順調に成長の一途をたどり、例えば昭和50年4月には月間生産量42,232tと言う最高生産量を記録し本日ここに累計生産量794.8万トンを達成して休止することになりました。
この間、多くの輝かしい成果を収め当所の収益向上に多大の貢献をするとともに、社内外に於ける此の種連続圧延機の先駆者として果たしてきた技術的な役割はまことに特筆して余りあるものがあります。
2.生産構造
昭和49年の石油ショック以来当社を取り巻く経営環境は低成長経済への移行と共にますますその厳しさを加え、生産量の減退と構造的な需給ギャップによる歪みは年を追ってその圧力を強めてまいりました。
そこで、この難局を打開し将来に向けて、新日鉄不動の経営基盤を確立するため、昨年来本社において全社最適生産構造体制を目指した綜合的な検討が勢力的に進められてまいりました。
その結果線材部門についても、需要の減退と共にコイル単重をはじめ、品質に対する需要家の厳しい要望に対応して行くためには、全社的な観点から余儀なく当所の第一線材工場を休止せざるを得ないという結論が出されました。
光製鐵所長としては、当所の歴史ともいえるこの工場を休止することは誠に愛惜の情に耐えませんが当社将来の発展、ひいては光製鐵所の将来、更には残された第二線材工場の発展のため大局的な見地から、この問題に前向きに対応することにいたした次第であります。
3.有終の美
昨年10月26日、この問題が組合に提示されて以来、累次にわたる会社と組合との誠意を尽くした話し合い及び、組合幹部諸君の献身的な取り組み、更には従業員諸君の会社の真意に対する冷静な判断と理解により、去る2月1日に人員措置を含めて円満な了解に達することが出来ました。
その間従業員諸君にとっては今日まで不安な日々の連続であったことは察するに余りあるものがあります。
しかしながら昨年来私が新記録表彰のため線材工場を訪れたとき、一線材工場代表者から、諸君が20有余年にわたり築き上げてきた栄光のためにも線材魂を持って是非とも有終の美を飾るとの固い決意が表明され、終生忘れ得ない深い感動を覚えました。
その後この固い決意の通り12月、1月、2月と月を追って各種歩留、原単位、能率、安全にと次々と輝かしい新記録が樹立されて参ったことは、ご承知の通りであります。
これこそ将に光製鐵所の線材魂の発露であり所長としてこのような従業員諸君と共に働き得る幸せを噛みしめ感謝の気持ちで一杯であります。
本当にご苦労様でした。
また第一線材工場がこのような業績を残して有終の美を飾り得たのはひとり工場関係者だけでなく工程、整備、技術部門のスタッフをはじめ関係協力会社の諸君の日夜を分かたぬ努力と協力及びその優れた技術力があって初めて成し遂げられたものであり改めて深甚な敬意と心からの感謝を表するものであります。
4.将来
休止に伴いこれから職場を離れて行く多くの諸君にはいろいろの御苦労がある事と思いますが当所将来の発展のため及び諸君自身の将来のため心を新にして。一日も早く新しい仕事に慣れ今まで以上の立派なそして自信に満ちた成果を上げるよう心から期待しております。
諸君が第一線材工場で培ってきた最高水準の技術は脈々として、残された第二線材工場に引き継がれ将来に向かって新しいより高いレベルの第二線材工場に成長して行くことを信じて疑いません。
今回の休止を契機として、全従業員が一丸となってチャレンジ光55を合い言葉に夢多き光製鐵所作りに前進しようではありませんか。
5.むすび
最後に本席に御列席いただいた皆様方の今までのご協力と関係従業員及び協力会社諸君の努力ならびに労働組合の皆さん方の深い理解に対しもう一度深甚なるお礼を申し上げてご挨拶を終わります。