八幡製鐵入社


入社辞令と光への転勤
八幡製鐵株式会社辞令 これは八幡製鐵に入社した時の辞令である

最近の技能工の時間給並みの月俸ではあるが、当時としては最高とは言わないものの、トップクラスであった。

八幡の指定された寮へ、下宿から荷物を送ったが、机、本箱、本棚、アマチュア無線の装置及び将来を見越しての部品などがあったため、寮の管理人から、あんたは荷物が多いね〜と言われたもの。

寮は2人一部屋で、荷物が多い分だけ小さくなっていた。

一ケ月の研修の後、技術屋は現場配属になり、光製鐵所を希望した私は八幡から転勤し、個室の完備した光の寮に入寮した。
同期入社100人の中で光を希望したのはたった2人だったもので、光では歓待された。 光を希望した理由は、圧延をやりたかったからであった。 専攻は金属であったが当時は冶金も金属もイッショクタで、圧延は機械や電気の専攻者に希望が多く、高炉や製鋼に回されそうな気がしたことから光を希望すれば圧延を担当できるものと、無い知恵を絞った結果であった。

技術者の現場経験
製造現場は3組3交代勤務で、甲番(7:00〜15:00)乙番(15:00〜22:00)丙番(22:00〜7:00)の勤務時間。時間が変則なのはバスの運行時間に合わせたもので、一番バスで甲番の出勤を、最終バスで乙番の帰りをするためであった。
勤務番は一週間続き、月曜が勤務の替りである。月曜には甲番が乙番まで連続勤務し、それまでの乙番者は丙番に出勤する。したがってそれまでの丙番(夜勤)者は火曜の甲番に出ると言う仕組みであった。
各組には監督さんと言われる学卒者が一人ずつ配属され、現場の組織は各職場には工長が配属されていた。現場は3組で(A組、B組、C組)夫々に学卒者が監督さんといわれて付いているので、新人が入ると古参者が交代から離れてゆく。即ち3年間のお勤めで交代から離れる事が出来る仕組みになっていた。
この監督は実操業に対しては、相当大きい権限と責任を持っていた。例えば設備が故障した時の指示など、わからないと言って頭を抱えているわけには行かない。何らかの指示をせねばならない。設備担当部門に復旧を依頼したとしても、50人を越す部下にその間のやるべき仕事を指示するとか、休止時間を次の生産のために如何に有効に使うべきか、休止の真の原因はなんなのか等々臨機応変な決断を求められた。
操業が順調な時には現場に出て、細かい調整の作業とか、運転室の運転とかを学ぶ事も出来たし、又現場操業に立脚した設備や操業条件の改善にも取り組めた。この責任を持っての現場経験は技術屋として非常に役立った。

ところが、35年になってライン・スタッフ制度、Forman制度(作業長制度)が導入される事になった。現場経験を活用して操業の責任をラインに持たせ、技術は操業をサポートすると言う仕組みであり、例え現場に入社しても作業長・係長・工場長・部長との昇進ルートも出来る素晴らしい組織であるとの触れ込みであった。
私はこの制度の欠点は技術系学卒者の育成の点で問題があると反対であった。技術者は現場を知らねば的確な判断が出来ない、現場の言語を技術の言語に翻訳が出来ないと技術者としては成功しないと言い続けた。
ラインイニシアティブと言いながら、工場長(ラインの長)には一番新任を配置し、スタッフ部門長(工場長より古手)の指示を守らせるやり方はおかしいと、昇格試験に書いて睨まれたものである。
たまたま拡大基調にあったので、大量入社した学卒者を現場でじっくり育てる余裕も無かったこと、ブルーとホワイトの垣根を低くせねばならないことなどの時代の要請もあったことではあるが、その後の入社した学卒者は現場から離れた存在になる比率が高くなった。欧米の技術力に追いつき追い越した技術力の原点は、現場言語と技術言語の融和にあったと思うのだが・・・・。

工場の要員は基幹要員として八幡の線材工場経験者と現地採用者であった。八幡の現場には組長・伍長と言われる職位があり、組長は自分の組に対して絶大な力を持っていた。光は新鋭製鉄所であり、新しい現場組織で運用していた。たとえ以前には組長であっても、光では公的には工長である。工長と言えども現場の一員で要員数の内数である。私の部下に組長上がりの工長がいた。彼は工場からちょっと離れたところの記録室と言う小屋にドシリと座り、実作業は殆どしなかった。要員が一人欠けた状態で作業にも支障が出るありさま。ある夜勤の夜にその小屋に出向き詰問しようとしたら「監督さん、今日は食用蛙を焼いているが、食べて行かんね」とのたまわれ、おかしいやら、悲しいやら・・・・・・。いずれ近々定年だからしょーないか、とあきらめたものである。
終戦直前の余剰爆弾の投下目標になり、敷地内至るところの池には食用蛙がいてやかましく鳴いていたと言うよき時代ではあった。

ピアノ線材の生産
1960年ごろ、国産のピアノ線を唯一製造していたピアノ線のS社を神戸系列から八幡系列に取り込むことを画策した人がいた。当時国内では高級線材は神戸製鋼の独壇場であり、八幡は普通線材しか製造せず、高級品種に進出するには量的に需要を確保しなければならなかったことから、この動きには現場としては大賛成であった。また、新鋭の第2線材工場の建設も始まっており、この工場の稼働率の下支えも必要であった。

一方、S社の現場の方々から見ると、今まで苦労して供給ソースを確保し品質にもまずまずの満足をしているところに、どこの馬の骨かわからぬ高級鋼の生産実績の無い会社の物を使えと言われて嬉しい筈が無い。会社としての系列変えであり、シェアーを次第に上げてゆくと言う安易な方法は取れず、全品種を一挙に変える必要があった。そこで密かに各品種の試作を行いユーザー評価を始め、ある日突然公表されて以降すべての材料を供給することとなった。

戦後の鉄鋼業の発展の中で、需要家の材料供給系列のこれほどの大事件は後にも先にも無いほどの衝撃的なことであったが、たまたまその材料の製造技術管理を担当し貴重な経験をした。

S社を取り込むことで八幡製鉄は高級鋼線材製造への足がかりを得ることが出来、現在では後進国に追い上げられて、高級鋼しか製造していないことを考えると、画期的な出来事であった。

表面疵問題
高級鋼線材の品質のポイントは表面疵と内質の均一性である。内質は前工程で決まるもので、光としては結果を前工程の八幡に報告し改善を求めるしかすることは無かった。表面疵は材料に起因するものと、圧延に起因するものがあり、この切り分けと改善に苦労が始まった。線材はコイル状に巻かれているが、その長さは当時でも1.5Kmの長さがあった。(現在では10Km程度にもなる)表面疵とは目視で判別出来るものもあるが、そのようなものは問題外で、表面のスケールを酸で除去して見えてくる深さ0.1ミリメータ以下の疵が問題なのである。

0.07mmの深さが合否判定基準で、より高級用途には0.05mm深さが上限であった(ちなみに毛髪の径は0.08mm程度である)1.5Km長さの中のすべてに位置においてこの疵深さを越えると、その部分を最終需要家で使えば不具合が出る事になる。これを保証するのは至難の業であった。1.5Km長さの線材コイルから両端を400mm程度切り取り、酸で洗って疵の検査をして合否判定をするが、念のためさらに数m切り捨ててそこからサンプリングすると、最初に合格したものでも不合格になるものがある。統計学で言うところのサンプリング問題であり、不良率が高ければサンプル数を増やすしかない。でも切り刻んだのでは検査は出来ても製品は取れない。当時テーブルマスターとしてこの疵問題が最大の関心事であった。

疵の生成原因は無数に考えられる.。それを各個撃破するしか対応策はない。まずは材料の疵を完全に取り去ることにした。当時は普通鋼線材しか生産してなかったので、材料(ビレット)を平面に並べて目視で疵を見つけては溶削していた。しかし対象とするような疵は目視で見えるようなものではないかもしれないと、全面を溶削してみたが返って疵が増加した。そんな馬鹿なと調べまわったら、高炭素鋼の熱影響部に起因する疵であることが判明し、グラインダー研削を設置することになった。ビレットの疵検査も目視ではなく磁気探傷を取り入れる必要があった。(係長以下100名ほどの組織となった)

片や圧延では加熱された材料は20台以上のロールを通って圧延されるが、このロールの入口・出口には誘導装置がついており、その他いたるところに材料を誘導するガイドがある。これらに1100℃〜800℃の材料が当りながら通過してゆくわけで、ここで擦られれば、その疵は製品まで残ることになる。材料に疵が付かないようなやわらかい材質、或いはCr鍍金してつるつるにしたり色んなアイディアをテストした。これらはすべて失敗し、最終的にはすべての個所にローラータイプの誘導装置を取り付けることになった。これまた誘導装置を準備をする担当部門が必要となった。

結局は材料の疵の徹底除去と、圧延中に鋼材と接するところをすべてローラーにすることで疵問題は大幅に改善されたが、それまでの間、受入検査不良との呼び出しで寝台に飛び乗り東京まで何回往復したことか。新幹線などは無い頃で、寝台券が無くても乗せてはくれたが、デッキしか乗れず中は冷房してあるのにデッキに新聞を敷いて座ったことも懐かしい思い出である。

内質問題
高級鋼になるほど内質の均一性が要求される。鋼は溶けているときにはほぼ均質であるが、凝固する時に成分のむらが出来る。(偏析と言う)これは凝固時に融点の高い部分から凝固し、次第に融点の低い(=不純物の多い)部分が中心に集まるものである。従って急速に凝固させれば偏析は少ないことになる。昔は鋼塊と言われる塊に固めていた。この大きさを小さくすれば偏析は少なくなるが能率は低下する。この工程は八幡で行っており、彼らは能率低下を嫌い大型鋼塊を使うことを前提にするし、光サイドは小型鋼塊を使って欲しいし、連絡会で侃々諤々したものである。

その後、鋼塊法は連続鋳造に変わり、連続鋳造は鋼塊法より冷却が早いので、この問題は相当改善されているが、当時は大問題であった。この判定は目視による官能検査であり、合格水準と判定して出荷しても受入検査で不合格になるものがあり、これまた何度も呼び出された。

出かけていっても、それで解決するわけではないが本社と需要家のサンドバッグだったようなもの。判断基準はどうであれ、非はこちらにあるので、出かけて謝るしかない。S社の方からは「我々はもう後戻りは出来ないんです。高級ピアノ線が造れなければ会社が潰れます」と悲鳴が挙がる中を、実状を話しステップバイステップでの改善にお付き合いしていただくしかなかった。対応には設備設置から行うものばかりで、設備を置くとなると1年がかりの話。心からの笑顔で接するようになるには10年はかかった。(と言うことは八幡と神戸の技術格差は10年近くあったと言うこと)このことから得たものは、需要家には真実を話すこと、ごまかしは効かないという事であり、これが私のモットーになった。

その後この圧延での品質の造り込み技術は、ステンレスやチタンの線材圧延に発展し、需要家の評価を得ているが、井の中の蛙が大海に向こう見ずにも飛び出した頃の話である。

ミュージックワイヤ
S社はミュージックワイヤーを作っていた。この材料は神戸製鋼も供給してなくて、Swedenから木炭銑から作られたものを輸入していた。木炭銑は不純物が少ないことはわかっていたが、当時純度の高い材料をテストしても音色が違うとして採用されなかった。音色と言われれば評価法が無く、評価法が無いと改善策を考えても、良くなっているのか悪くなっているのかすらわからない。これまた数年がかりで純度との戦いが始まった。鋼の純度を検討するのは八幡サイドであり、われわれは単なるメッセンジャーでしかないが、最終的には、溶解した鋼を真空処理することで音色が合格し、100%国産化が図られた。鋼に真空処理をして実用化した国内最初の製品である。

技術の発展には評価法が無いと駄目だと痛感した。その後新期需要に新しい材料をいくつも開発したが、この評価法をユーザーと合意することを最初に行うことにした。通常評価法はなかなか特許にならないが、下手な外販技術より有益なもので、その後の技術供与に際してはこの点を重視した交渉をすることに心がけた。

それにしても八幡製鉄と言う会社はありがたい会社で、入社後5年くらいの若造の調査結果に基づき、設備の設置・改造等自由にやらせてもらった。S社を系列化するという途方も無い方針実現のためではあったが、技術者冥利に尽きる仕事ではあった。しかしながらこれらの技術は現場ワーカーのスキルから出発しその後、スキルをハード設備の改善・製造プロセスの最適化に結びつけることで、操業の安定化を図ったものである。言い換えれば、後進国がそれだけのハード設備を設置し、その目的を理解して生産するならば、ほぼ似たような物は造ることが出来ることを意味している。スキルの差は製造原価の20%以下であろう。ここに日本の鉄鋼業が競争力を失いつつある元凶があるものと思う。