線材鋼管部長として
5年ぶりの光には線材鋼管部長として帰任した。 部には線材工場、鋼管工場、熱間押出工場の3工場があり鋼管工場には中径管と小径管の2設備があった。 |
実は本社では第2次合理化計画にタッチしていて、光の線材工場と鋼管工場の小径管工場は休止する事にしていた。 部長になれた事はうれしいが、担当する工場の半分は休止する事になっており、公表前でありそれを口外する事も出来ない状態で着任した。 ただ休止しなければならない論理だけは分かっていたので、その論理を打ち破れば休止せずに済むはずと考えた。 |
本社からは次々に品種移管を指示してくるし、それに対して抵抗しない私の所に青年将校がいきり立って、これでは工場はつぶれる、どうしてくれるのかとその都度押しかけて来た。 他所と比較して競争力の無い物は止めるしかなかろう、我々は新しいものを探すのだと言ってもなかなか納得しませんでした。 |
線材工場の課題 |
線材は当時2500Ton/Mのステンレス線材を7000Ton/Mに販売を拡大すれば移管先の能力がなくなる事、小径管は、それまでの製品は他所に移管しても他所では出来ない新しい需要を見つける事で存続すると言うのが私の読みではあった。 |
線材は国内販売は色んなしがらみの中で当社だけシェアーを上げる事は不可能なので、輸出に重点を置き本社輸出部とタイアップして東南アジア特に台湾をターゲットに需要家を開拓することにした。 1日3社平均に10日間ほど民家の土間先工場まで、価格ではなく技術力を買って欲しいと言いながら訪問した。 たまたま台湾のステンレス2次加工が大きく発展する直前であり、彼たちには技術が必要な時でもあり、この訪問は時機を得ていたこともあり、大成功で生産量がうなぎ上りに増加した。 |
最盛期には台湾の需要の80%は光の線材になりました。 これにより光の線材工場はステンレスに特化し生き残ることになり、競争力強化のためのミル更新も行われ、今では世界一のステンレス線材専用ミルとして君臨している。 |
小径管工場の課題 |
小径管工場は水道管、電線管を作る工場でしたが、製造プロセスの進歩により、安価なプロセスに置き換わる趨勢にありました。他社はすべて新しいプロセスに変わり、新日鉄も勿論新しいプロセスは持っていたが、他所にありました。 同じ敷地内にあればとっくに止めていたでしょうが。 |
この古いプロセスと言うのは、一度大きな径に溶接管を作り、それを加熱して圧延して小径管を造ると言うもので、新しいプロセスである鍛接管に比べれば生産性とコストが段違いに劣っていました。 品質は鍛接管より安定しているのですが、水道管、電線管には鍛接管で充分でした。 加熱して圧延したものを切断して鋼管にしていたのですが、アイディア豊富な松岡先輩が線材の捲取機を付けてコイルに捲く事に成功していました。 |
他社はとっくに休止した設備で真似をしようにも出来ない状態ですから問題は需要を見つければ良いだけなのです。 とは言うものの2次加工の立場で考えると、従前の常識から大きくかけ離れた加工方法になり、設備も新設せねばならないので、遅々として進まない状態でした。 |
これを普及させる事が出来れば、この工場は生き残れるわけで、長尺の鋼管利用分野、中空の部品分野、の両面作戦で需要開拓に力を入れた。 |
長尺分野では中心に溶剤を入れた新しい溶接棒に使われることになり、また浅間のスケートリンクの冷却能が落ちた理由が鋼管の溶接にあることが判明し、長尺配管用途が見つかった。 配管分野では路面氷結防止に地下水を流す道路用などにも使われ始めた。 今回の長野オリンピックにも屋内スケートリンクの冷却管はこれが使われている。 |
中空部品はそれまでは継ぎ目無鋼管を引き抜いて使われていた。 この分野をターゲットに2次加工技術を開発し、実用化できるようになった。 |
今では設備の近代化投資もして世界唯一のパイプのコイル専門工場になっています。 PIC (pipe in coil) と言いますがこの製品の紹介は鉄の話題で取り上げたいと思います。 |