ゴルフは今も続いている趣味ではあるが、一頃のような執念が無くなり平凡なスコアーしか出なくなった。 それでも握った番手で思った通りの角度でボールが出ることがたまにあり、それだけが楽しみなゴルフになってしまった。
と書いていたが、完全に年金生活になるとゴルフどころではなくなったこともあり、急速に興味を失い調べてみたら1999年12月23日からまったくゴルフをしていない。どうやら私のゴルフとのかかわりは終わったようだ。

就職後もテニス、アマチュア無線、オートバイから4輪車での競技、スキーと楽しんだのは良いが、いつもピーピー言っていて、とてもゴルフまでは手が出なかった。
何かのはずみでゴルフをと思い立ち、社内のシングルに教えを乞う事にした。彼はバレーのかっての名選手で、長身から繰り出す見事な玉筋を持っていた。
インドアのほうが力まなくて良いからと、5番アイアン1本を持って練習開始。 彼のセオリーはヘッドは円弧を画くが、ヒットの前後では体のターンに伴う体重移動でヘッドが直線になる区間がある。 と言うことと、距離は番手が出してくれるもの。であったように思う。
とにかく、毎日打ち込んだ。血豆が出来て、破れてみるとまたその下に血豆が出来ていたと言うような毎日であった。 2週間後スプーンをもってこいとのことで、スプーンだけの打ち込み。結局一ケ月間インドアばかりの練習をした。
それまでは、弟が上司からもらったお下がりのセットから2本のみ使っていたが、そうも行かず、大金をはたいて購入したのが象牙をインサートしたMIZNOのGrand Monarch。 これで格好だけは付いたようなもの、ショートアイアンの練習に進んだ。
初めてコースに出たのは、1967年(昭和42年)のある平日に当時の工場長とゴルフの話になり最近打ちっぱなしを続けている事、コースには未だ出た事がないと話したら、今日は暇だから今からついてこいと、車で15分ほどのコースに行く事になった。
私の車で社宅に帰って道具を積んで、工場長の家に寄ったら、奥さん不在で鍵が掛かっていて入れず、止めるのかと思ったら何と窓ガラスを割って家に入り道具を持ち出したのには吃驚仰天。 これが私の筆卸でした。
その頃はメンバーに頼んで電話してもらえるだけでスタート予約が出来たので、会員権を買うよりビジターで行く方が安いと、初心者だけであすなろ会を作り、相当な頻度でコースにも出たり練習にも励んだ。 練習場では天ぷらでもトップでもいいから、とにかく正面の柱と柱に間にボールが行くことだけを考え、家ではドライバーの先端にタオルを結びつけてスイングの後半でぱたぱたとはためくように素振りをした。
その後課長になり、社内外のコンペの参加資格が出来、例えばOSS会(Oil、Soda、Steel)という周南地区の企業の会にも参加できるようになり、片っ端から参加した。後年その記録を見ていて、初参加から回数が増えるにしたがって3桁から2桁になり90を切りと徐々に上達した成績を見て我ながら感心したもの。
その頃になると、メンバーでないとスタートが取れなくなり、縁故募集している柳井カントリーを購入したものの、保安林が引っかかりなかなか開場せず、その近所の岩国カントリーを義父の関係で頼んでもらい購入。
せっせと通ってカードを出し、岩国で最初にもらったハンディが15。 これで第1回理事長杯を取った。

岩国カントリークラブ第1回理事長杯を取りました

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その頃柳井も開場しハンディキャップ委員になっていて、「あんた岩国で優勝していたね、ハンディはなんぼになった?」「はい、お蔭様で12になりました」「そんなら内は10にしよう」「賛成賛成ぱちぱち}で10にされました。 委員になった時、ハンディは合理的につけましょうと出されているカードを一人でこつこつ計算して弾いていたのにと不満ではあったものの、お年寄りの委員ばかりの中でいつも頂いているのだからまあ良いかと。
柳井のハンディキャップ委員長が下働きをしている私に、今度オープンする中須に入りなさいと、特別枠の入会申し込み用紙を送ってきました。銀行のローンまで付けての送付で断れず、これにも入りました。 その人は中須の競技委員長で、入会と同時に競技委員にされました。山口県は保守勢力が強く、その中で岸派、佐藤派の色分けがはっきりしている土地柄です。中須は保守勢力の総本山である県連の経営で色の着かない弟子が必要だったのでしょう。ともかく10年以上委員をしていました。
その頃半年間ほど毎日4kmのジョギングをしてから、打ちっぱなしに行くと言う日々を送り、 足腰を鍛えてスイングを強化した。
中須の総合委員会で往復30台で優勝したら、ハンディが甘いと拍手で8にされてしまった。私の友人の学生チャンピオンにもなったこともある野村君に話したら、「40過ぎてシングルになるとはおまえも馬鹿だな」と一笑にふされてしまった。サラリーマンでハンディを維持するのが大変だぞと言うことだった。
妻子を路頭に迷わせるわけにも行かず、精進して何とかハンディを維持していたが、東京本社に転勤になり、初めてのプレイが交通関係のストがあるという日に読売カントリー。ここでワンハーフ回ったが、ロングで2オン1パットのイーグルやら、かの有名な18番ショートを2回ともワンオン2パットのパーで上がり本社の先輩方の鼻を明かしたのが懐かしい。
再び光に転勤になり、何しろスタート前1時間に出発すれば間に合うゴルフ場が10ヶ所くらいあり、メンバーになっているコースがその中に4ヶ所もあればやらない方が不思議なほど。年間50回くらいの頻度でハンディを維持していた。
しかしながら、光を離れて回数もぐ〜と減って大阪に来て花屋敷で16から再出発し月例3回優勝で10に、その後西宮をホームコースにしてJGAオフィシャルを24から16まで延ばして、退任で西宮がなくなり、オフィシャルもなくなりました。
その後東京に来てバイト先の社内コンペとか、酒匂ロイアルでの新日鉄の会などたまに出ていたが、同じコースを持っている知人がいないことコースまで1時間以上掛かる(帰りが居眠り運転になる)などで、誘い合っていくことが出来ずさりとて一人で行くのも気が進まずいつのまにかゴルフ場から遠ざかってしまいました。
WEB開設以来のゴルフをページにしていますが、見てみたら1999/12/23から2年以上もご無沙汰の状態。
どうやら私のゴルフ人生は終焉を迎えたようです。(2002/1/18追加修正)