震災後光時代の旧い仲間たちから電話や手紙や義援金など数多くの支援を受けました。 関係が途切れて10年以上経った人たち、私も光を離れて6年経っていました。 感謝の気持ちは何時になっても忘れることは出来ません。
○ ○ 様
前略
このたび思いがけなく心温まるお見舞いをご送付いただき、感謝の念でいっぱいです。ありがとうございました。 大震災のど真ん中にいて、身体と住処だけは健在であった事がなによりであったと幸運の女神に感謝しておりました。近所の学校、公園はもとより空き地のいたるところにビニールシートの囲いができており、その中で生活する人が被災者として救援物資を供給されていますが、住むところのある人は、何となく後ろめたい思いで遠慮するような雰囲気でおりました。 そのうち電話回線の合間を縫って、たくさんの方々から安否確認と激励の電話をいただき心強く勇気づけられていたところでした。
災害に付いてはマスコミから種々報道されているので省き、身の回りで気づいた事を報告します。地震に付いては、15年ほど前に本社に転勤したときには、タンス等の家具には全て倒壊防止の為の針金を張り、風呂の水は翌日まで抜かないでいたものでしたが、阪神地区は地震の無いところと思い違いをしていたため、何の対策もしませんでした。(今思えば針金くらいでは駄目だったでしょうが)
被災後2日間は飲料水と食料の確保だけに費やしました。結論は4時間歩き回ってロールパン2個、スーパー等は倒壊するか、開けてもすぐ品物が無くなる状況、まだ開けていない店の前にいつ開くかわからないまま大行列。近所にお菓子の卸屋が夜になり店を開けたという情報で行列に並び、ビスケットとかポッキーの類を2万円相当購入、飲料水は無し。救援物資等が来るようになるのは3日め以降の話、給水車は1週間後。 次の問題は生活用水、中でもトイレの水、2日目になりどうしようもないので300mぐらい坂を上がった所の池からバケツで運んでみたが2回運んでダウン。トイレにはバケツに何と 1.5杯が必要。3日目になり近所の民家の井戸水を使えるようになり100mに短縮。但し4階まで階段がたいへん。水は今日までまだ断水状態。ガスは3月中ごろの予定。
通勤はJR芦屋まで片道1時間20分(2日間)阪神青木まで50分昨日よりJR住吉まで15分と次第に正常化しています。スキー、ゴルフには良い鍛錬になっていると思いますが、遊ぶ雰囲気になりません。23日から会社に出ていますが淀川を渡ると別天地、住居があっても生活が回復するのは夏になるでしょう。住居の無い人は何年がかり、それまでこの落差のままで済むのか、政治を含めた大きな課題が出てくるような気がします。
取り留めないことを書きましたが、みなさまのご厚情は決して忘れません、本当にありがとうございました。5月には光に行きたいと思っていますので、そのときにはまたご参集ください。 まずはお礼と近況報告まで 敬具
(光製鉄所OB会からの見舞いに対する礼状 平成7年2月20日付)
○ ○ 様
前略
この度は大変なお見舞いを頂きありがとうございました。光を離れてほぼ6年、みなさまのご厚情に感謝でいっぱいです。
当方は娘をいれて4人で生活をしていましたが、おかげさまで、しっかりしたマンションで住処だけは無事でした。阪急電車が上手に、JRが下手にさらに100mほど下がると阪神電車があり、比較的交通には便利な所でしたが、今回の災害では一番被害の大きいところで、未だに復旧していません。近所には無惨に倒壊した住宅やマンション、一見無事に見えてよく見ると一階が無くなっているビルなどがいたるところにあります。そんな中で住むところだけは確保できていましたが、公園、空き地あるいは路上の車に被災者が満ちあふれ、その人たちに対して、なにか申し訳ない感じでした。
それにしても、地震と同時に部屋の中はすべてのものが倒壊しました。360Kg(昔の線材より重い)のグランドピアノが、1m位移動したくらいです。窓の外ではあちこちに火事が発生しており、近づけば避難しなければと荷物を作ろうにも真っ暗闇。倒れた仏壇からローソクを出し懐中電灯を探すことが最初の仕事。ちなみに倒壊した家屋で夫を捜すためのローソクから引火した例もあるそうです。ガラスの破片だらけで、靴を履いてただ呆然としていました。電話だけは生きていたので、離れて住んでいる母と子ども二人には無事である連絡をしましたが、その後電話も使用不能。
明るくなって、ガラス、陶器の破片を段ボール箱に入れ、小さな破片は掃除機が使えずガムテープ取り、タンス、本箱などを置き直して座る場所だけは確保して1日が過ぎました。暗くなってから電気がきて照明と暖房だけは復旧。水、食べ物は冷蔵庫のもので何とかなりましたが翌日になると空っぽ。近所のスーパー、小売店もほとんど壊れているのでアウト。水だけはと思い、300mほど離れた池からトイレ用の水をバケツで運んだものの、なんとトイレにはバケツ1杯半の水が必要。3回運んでダウン。
何か食料をと4時間ほど歩きましたが狭い道は倒壊した家屋で通れず、大きな道も歩道からはみ出て歩く始末。行列があれば並ぶことを繰り返して菓子、ジュースの類を入手、これで一安心。救援物資が来るのは3日目以降の話、それも避難所主体で自分の住処に居る人は遠慮するような量。
3日目になると近所に井戸があり、もらい水ができるとのことで生活用水は確保。ただ水を運ぶことの大変さだけは身にしみました。
23日から出勤開始、JR芦屋まで歩いたり(1時間20分)運良く乗れれば連絡バス。そのうち歩いて50分の阪神青木まで回復、今月8日からJR住吉まで回復(20分弱)毎日相当歩いたので体重はと計れば昔のまま、でも体力は相当鍛えられたと思います。水道は10日から回復、ガスは3月末とのこと、現在は風呂だけが問題。
だらだら書きましたが、言いたいことは個人としての危機管理の問題、風呂の水は抜かないこと、非常持ち出し品は常に整理しておくこと、非常食・飲料水は3日分用意しておくこと、10円玉をたくさん確保しておくこと(電話は公衆電話がかろうじて使用できるが10円玉しか使えない)。
今回は数千年に1回の大きさとか、とはいえ断層は光の付近にもあり、神戸は大丈夫でも他の地域はあるやも知れず。
震災後1カ月になりますが、まだ25万人ほどが避難所暮らし、ほぼ周南地区の人口が寒さと不安に震えています。その中で家族一同無事であり、また皆様からご厚情をいただく喜びを大切にして元気を出したいと思っています。本当にありがとうございました。
敬具