1)従来工法 1850年代迄はレンガないしは石組み工法が主で建物の巨大な重量を壁が支えるのが一般的な技術であった。ブロックを組んでいた鋳鉄ビームは間もなく錬鉄に変わった。1854年に始めて圧延されたものがUnited Assay Officeに使われ、1855年にCooperピルに使われた。錬鉄ビームと石とレンガの組合せ工法が保険率の減少もあるほど耐火性で社会的に評価されていた。錬鉄を積極的に採用して高い建物を造ることは、N.Y.やChicago等での人口集中している都市では歳入が多くなる可能性を実証した。しかしテナントの昇る高さは4〜5回が実用的な限界であった。 1852年にOtisによってエレベーターが発明され、ニューヨーク万博に出品し、N.Y.の5階建てのデパートに乗客用として1857年に作られたが、満足のいく電動式になったのは1889年であった。1870年代の前半に事務所用と'して付けられ、それ以降ピル経営の常識になった。高層階の需要は馬車の通行による道路の粉塵と騒音から逃げる目的からきているもので、賃貸代の高い割りには快適な眺めが好評であった。 多層階ビルの発展はエレベーターの発明が要になっているが、耐火性をもたせるために木製の床・トラス・階段そしてエレベーターの枠等を鉄に置き換えたところがポイントといえる。1870年代の摩天楼は8〜10回が経済べ一スで、これ以上になると壁は厚く、1階のレンタル空間は多くの壁と柱で昼間でも暗く、建物はごつくまるで要塞のようになってしまう。このころは柱に錬鉄を用い、レンガを支える構造用ビームの採用で壁は薄くなり、8〜10階のピルがN.Y.で林立し始めた。 2)本格的摩天楼の出現 高層建築の発想は1801年に英国で鋳鉄柱を活用して7階の紡績工場を、1871年に仏国でチョコレート工場に適用されていた。1884年にBessemer鋼のビームがPittsburghのCarnegie鉄鋼会社で圧延され、10階建てのHome
lnssuranceビルに1884年に使われて、米国で初の摩天楼と呼ばれ、6階までは錬鉄の梁と外壁は鋳鉄柱をレンガで包む様式にし、7階以上をBessemer鋼に置換した。W.Jenneyは骨組み構造工法を考案し、外壁の概念を変えてChicagoに!4階のTacomaピルを作った。 3)摩天楼発達の要因 摩天楼はアメリカ最大の典型であり、Chicagoで生まれ、6〜7年のうちにその本質が普及した。摩天楼は人口増加に悩む都市問題から生まれたもので、急速な建築は都市の土地選択の自由度の欠乏となった。その結果地価は高騰し、ChicagoのLoop地区で1880〜1890年になる間7倍にもなった。旧型の低く広々としたピルは地価上昇のもとでは生き残れなくなって、同じ土地で収入を大きくするには垂直に建造する可能性が取られた。 4)摩天楼の飛躍 1900年から1910年の間、粗鋼量は11百万dから29百万dへ増える中で、形鋼も91万dから254万dへと成長した。1847年F.ゾレスは錬鉄のIビームを圧延して1855年のパリ万博に展示した。また1862年のロンドン万博では英国は900*300のタプルT鋼と称するWide
Flangeを展示している。1862年〜1890年迄は2重ロール式で圧延されていてビーム幅は400oから1100pまで拡大していった。この間1883年にSeaman、,Sack、Kennedy、Aikenらにより各種のユニバーサル圧延機が提案されている。1895年の180ビームを圧延するのに200*150プルームから16パスでやっていたのが1913年には10パスになりコストもさがった。
5)摩天楼を生みだした思想 当時の社会背景を受けて摩天楼時代を出現させた建築家L.H.Sarivanによれば『摩天楼は誇り高く高揚するもの』てなければならないとし、単純さを重んじ、装飾的なものは排除した。これはピューリタリズム伝統に立つ態度で、機能性に徹することによって天に向かって伸びる人聞の夢を表現した。SarivanはJennyの弟子で、『形態は機能に従う』と言う概念で主張し、高層0fficeピルを生み出した。このJennyの考えをSarivanが成長させ1888年にChicago
Auditoriumビルをつくった。高層0fficeピルを生み出し一方のN.Y.での摩天楼は企業の繁栄の象徴として発展していくが、1920年代の『大衆』は企業の最大のターゲットで、経済活動の本拠地であるOfficeピルは『大衆jが遠くからみてはっきり識別される、要するに〔目立つ〕建築てなければならないとし、都市のSkylineから高くつきだした〔顔〕作りの流れを生んでいくのである。 |