2002年都市対抗
(2002/8/27)(2002/8/30)

10年以上御無沙汰していた都市対抗の応援にDOMEに行って来た。都市対抗独特の雰囲気を楽しみながら昔を思い出してしまった。
私が勤務した光製鉄所は山口県にあり、県予選・中国予選を経て後楽園に出る事ができるのだが、昭和40年代の初めころには協和発酵(防府)と東洋紡(岩国)が強く、県予選を突破することが 最大の関心事。チームそのものは打高投低で点は取るがそれ以上取られてしまうありさまで、所員の関心も薄く時たま中心打者が補強されて後楽園の土を踏む程度であった。
当時作業現場には野球部選手を受け入れる習慣が無かった(練習や試合で居なくなると作業に支障が出る)が、選手を集めると現場にも配属せざるを得なくなりお達しが来た。どうせ引き受けるのなら常時試合に出る選手が欲しいと人事と交渉し下商出身の野手を引き受けた。彼は安打製造機で足と肩がよければ当然プロだっただろう。チームの4番打者として10年以上貢献してくれて、現場の関心も高まり同僚の応援者も増えてはいた。
昭和45年八幡と富士の合併により交流人事として富士の広畑から所長が見えた。 広畑が黒獅子旗を取った立役者であり、所長に先導されて光も都市対抗に本腰を入れることになった。実績が無いので学卒の即戦力は採用できず、高卒主体に選手集めが始まり、他製鉄所から学卒のベテランを輸血したり、廃部になった他社からの輸入選手(投手と内野手)の効果が大きく、県の2強に拮抗できるようになった。
何しろ所長が県予選から応援に行くので、それまで関心を持たなかった所幹部も応援せざるを得ない状況になり、そうなると組織立った応援が欲しいと、元東大の応援部長だった先輩から頼まれ、私の部下2人に当時発売になったばかりのSONYオープンリールビデオデッキを持たせて、後楽園に1週間ほど出張させた。(出張理由はQCサークル活動研修としたが)
持ち帰ったビデオをベースに、新日鉄各所の応援団の指導も得て、光製鉄所応援団が出来上がった。新入女子社員には応援を研修の一環として課することになった。(毎年後楽園に出られれば良いのだがなかなか・・・)
とは言え、当時の野球の実力を一声で言えば「ドンクサイ」だった。地区予選で最終回1点リードで後楽園への切符をほぼ手にしながら、2ランスクイズでポシャルとか、一塁手(下商出身の私の部下)が相手のベンチのサインを覗き込んでいて投手が牽制球を投げみすみす3塁まで献上したとか、タイムを掛けずに野手がマウンドに集まり、1点を献上するとか目を覆うことが多かったのも次第にまともなチームになっていった。
地元から大町、山本、の2投手を加え輸入投手の児玉という3本柱で後楽園初登場は昭和51年ごろだった。 確かその時は初回表に無死満塁からホームランを打たれて、山本がリリーフに立ち9回までを無失点で抑えたが、初回の失点の挽回が出来なかった試合だったと思う。その後、 5〜6回は出たと思うが2回戦に進めたのは確か一回しかなかった。投手陣は社会人離れをしていたが打線が弱かった。投手陣では児玉は中日からドラフトが掛かり(辞退したが)大町は三菱広島に補強され好投が認められ阪神に、山本は広島に入団した。
私が最後のご奉公時代、近隣の高校に軟式だけどすごい投手が居ると言うので、他の軟式チームに内定していたのを無理やり採用したのが河本(ロッテ-巨人)。鉄を取り巻く環境が厳しくなり、社として野球部を持つ製鉄所を絞り込むことになった。高炉を持たない駆逐艦製鉄所の光は当然廃部になることになってしまった。
光が最後にドームに出たのは平成元年で以来私も興味を失いご無沙汰していた。
今年ふと新聞を見ると君津が出ており、避暑もかねてお手前拝見と出て行った。
水道橋からドームへ。第1試合なので時間どおりに開門するはず。試合開始1時間前なのでこの程度の人の流れ。2試合目3試合目と遅くなるに連れて前の試合の影響が出て混雑することになる。
それでも入口近くの受付は人であふれていた。わたしの勤務経験のない製鉄所なので、知った顔にも出会わず行列の流れに身を任せて・・・・。 行列の尻尾の方に居て、やっと入場したら1回の表裏が済んでいたこともある。
女子リーダーの応援風景。ドームで応援するのが彼女たちの願いであり、晴れやかな良い顔をしていた。 後楽園に出られないまま予選で汗と涙を流した女子社員も多かった。
都市対抗ならではの地元応援団 。東京近隣なら良いが、光から応援バスを出し雨天順延で途中から引き返したことも有り、遠隔地では応援に出かけるのも大変だった。現場作業は休止しないので、誰かが休むと誰かが連勤することになるのでその調整が難物。
まずまずの入りというべきか。 全盛期には内野席に入りきれず、外野席まで誘導したことがあったが、これもリストラの影響だろう。2回戦になるともう少し増えるかもしれないが。
対戦相手の一光は全国展開しているガソリンスタンドとか。初出場なのかミスが多く、君津の3倍以上のヒットを打ちながらやっと8回に追いつくのが精一杯。しかしこれで乗ってくるのかと思ったが。
最終回さよなら2塁打で君津の勝ち。珍しい勝ち方と負け方だった。2回戦は30日第3試合。相手はホンダ熊本。勝った時には社章入りのうちわを持って電車に乗っても気にならないが、負けたときには団扇がうっとうしくなるもの。でも暇だから応援したい気になっている。

 

2回戦(8月30日)
暇のはずが暇にならず、新宿で私が面倒見ているホームページの加除修正をしていて40分ほど遅れてDOMEに着いた。前の試合のチームの団扇を持って駅に向かって沢山の人が歩いているので、第2試合が終わっていることはわかった。DOMEに近づくと長蛇の大行列がそろりそろりと動いていた。この尻尾に付いたのでは、試合が始まってしまうと外野席を購入しゲートに向かって歩いている途中で、元君津所長にぱったり・・・ということで、幹部入口から応援席に入ることになった。
お決まりの[エール交換」が始まっても1/3程度の観客しか入れない。半数以上の人は試合が始まってからやっと席につけることになる。
初回にヒット2本と2塁打で1点を取った後、一死二三塁のチャンスに追加点が奪えない。その他一死三塁が2度あったが、スクイズすら出来ない。金属バット時代ならともかく木製バットでは打って点を取る野球は忘れなければならないのではなかろうか。3点取れば安全圏なんだと思うが。
得点チャンスになると応援リーダー全員集合で声を嗄らすのだか・・・・。
6回二死二塁でレフと前ヒット、ホームに突っ込むもタッチアウトになった。これでこの試合は終わった。最終回さよならヒットを浴びて私の今年の都市対抗も終わった。