田端環状積石遺構からの日没

2006/12/24


2006年の冬至は12月22日であり、田端遺跡からの日没撮影にトライした。天気予報によると21・22日は崩れそうなので、20日に最初のトライをした。調べた関東地方の冬至の日没時間は16:32なので、16:10ごろ西武線多摩境駅に着いたが、すでに太陽は没していた。丹沢山塊の視野角約4°としても、16分早くなるだけで、20分以上早くなる理由が不明である。ともかくミスッタ。
 
2006/12/20 撮影時刻 シャッター 絞り レンズ焦点
35mm換算
減光フィルタ無しでの撮影
16:12:53

1/400

F10

105mm

多摩境駅多摩ニュータウン通りの横断陸橋から。
遺跡までたどり着く前に日没になってしまった。
この写真は僅かながらリサイズしている。

予報通り21・22日は天候不順だったが、23日は西高東低の気圧配置で関東地方は快晴となった。2度とミスしたくないので16時前に遺跡までたどり着いた。すでに3脚を立てて場所取りしている人など10人ほどが集まっていた。

 

撮影したカメラは NIKON D70 で共通の設定は次の通り。 ISO:400、 記録画像:RAW、 設定:AUTO、 フィルター:KENKO 偏光フィルター C-PL 使用(減光フィルターの代用として) 写真の2、4〜8は元画像から切り出したまま。
 

2006/12/23

撮影時刻 シャッター 絞り レンズ焦点
35mm換算
 
15:58:47 1/125 F5.6 27mm 日没前の環状遺跡
16:06:30 1/500 F11 105mm  
16:07:11 1/500 F11 105mm 遺跡を含めて撮影し、画像ソフトで遺跡部を無理矢理見えるように出したもの
16:09:18 1/400 F10 105mm  
16:10:05 1/500 F11 105mm  
16:11:04 1/400 F10 105mm  
16:11:30 1/250 F8.0 105mm  
16:11:39 1/200 F7.1 105mm  
16:12:38 1/320 F9.0 105mm 日没後雲の影が現れた。 空気中の埃(もしかして黄砂?)の影響だろう。 自然現象はすばらしい。
10 16:14:32 1/30 F4.5 82mm これだけの人が集まっていた。毎年来ている人もいて「今日はここ数年で一番」とのこと。

 

田端環状積石遺構 町田市ホームページより

一抱えもある大きな石を9メートル×7メートルの楕円形に並べたストーンサークルで、ここから境川をはさんで相模原台地、丹沢の山並み、そしてわずかながら富士山の山頂も望むことができる。

この遺跡は今から約3000〜2800年前の縄文時代後期から晩期にかけてつくられた共同墓地と祭りを行った場所で、積石の下やすぐわきには墓と思われる素掘りの穴や、小型の石をめぐらした穴がいくつもみつかった。積石のあいだやこうした穴から土器や土偶、すり石や石斧、石棒などの石器、さらに耳かざり、大珠などの装身具が出土しており、当時の死者の埋葬や祈りといった、この地域一帯に居住する集団の宗教的な場であったと考えられている。

発見当時のまま保存されていたが、石の位置がずれたり無くなったりしたためそのまま埋め戻し、その上にレプリカを作成したもの(平成6年4月)

冬至と田端環状積石遺構  安孫子昭二さんのホームページより

 縄文人は、年間の日の出や日の入りなどの天体観測により二至二分を認知し、往々にして観測する特別の場所に記念物を構築していたことが、次第に明らかにされつつある(小林達雄編 2002)。記念物となる環状列石や巨木柱列が設営されたような場所からは、春分・秋分・夏至・冬至に神名備型をした山の山頂付近に日の出や日の入りが観測できることがある。町田市小山町にある「田端環状積石遺構」もそんな記念物のひとつといえる。

どうしてここに環状積石遺構が設営されたのか不明であった。その謎を解いたのは、町田市教育委員会に勤務する風水研究家の松本司氏である。「冬至の日、田端のストーンサークルから蛭ケ岳の真上に太陽が沈むのがみえるのではないか・・・」と直感した松本氏によれば、「蛭」は本来は「昼」、つまり光と太陽を意味する言葉ではないかという。蛭ケ岳(標高1673m)の頂上には大日如来が祀られている。その蛭ケ岳のピークに太陽が落ち、やがて背後に太陽が回ったとき、「後光がさす」言葉の本当の意味がわかったような気がしたという(松本 1999)。