山王社 (相原4092)

 
町田市史(上巻)から要約
山王(山王社)は修験者(山伏)の活動と密接な関係があると思われる。山王社は伝教大師が勧請した比叡山の守護神で、この神は山王権現と呼ばれて天台密教の教義と結びつけられ、天台宗の修験者の活動につれて全国に多く勧請された。
 
町田市史(下巻)から要約
当社は明暦3年(1657)7月15日土ヶ谷に創立した。寛文7年3月の検地の時には山王権現畑二畝二十歩の除地があった。祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)である。 例祭日は毎年4月29日。氏子は8戸。

Wikipediaから大巳貴命について
大国主(おおくにぬし)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神である。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する神格でもある。又の名を、大国主命、俗に「ダイコク様」
大国主は多くの別名を持つ。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされる。
大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(おう=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もある。
大穴牟遅神・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち) - 大国主の若い頃の名前
大汝命(おほなむち)-『播磨国風土記』での呼称
大名持神(おおなもち)
八千矛神(やちほこ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこのを) - 「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
大物主神(おおものぬし)
大國魂大神(おほくにたま)
顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)
国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)

 
祭神 大巳貴命(おほなむち)
由緒 由緒書きはない。 明暦3年(1657)7月15日土ヶ谷に創立した。
神官 常駐せず 宮司:不明

所在地 町田市相原町4092番

武蔵岡霊園の上にあり町田街道からは結構登ることになる。
 
Wikipediaから山王社について
大山咋神(おほやまくひのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ) 伊弉冉神(いざなみのかみ) 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。

日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。神仏習合期には山王(さんのう。山王権現、日吉山王など)と称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。猿を神使とする。
山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉(ひえ)神社(大社)の別名である。

日吉神社は、もともと近江国日枝山(ひえのやま:後に比叡山の字が充てられた)の神である「大山咋神」(おおやまくいのかみ)を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年である天智天皇七年(668年)、大津京鎮護のため大和国三輪山(三諸山(みもろやま)とも)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請しともに祀られた。

比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、大山咋神・大物主神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされた。唐の天台山国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていることに因み、延暦寺ではこの両神を「山王」と称した。

そして天台宗・延暦寺の守護神としての崇敬が、山王信仰へと発展しやがては「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。また天台密教は、鎮護国家、増益延命、息災といった具体的な霊験を加持祈祷によって実現するという体系(使命)を持ち、山王にも「現世利益」を実現する霊威と呪力を高める性格を与えたようである。

天台宗が全国に広がる過程で、山王信仰に基づいて日吉社も全国に勧請・創建された。日吉(ひよし)神社・日枝(ひえ)神社、あるいは山王神社などという社名の神社は、日本全国に約3,800社ある。神仏習合期には山王(山王権現・日吉山王など)と称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。日吉神社の神使は猿であるが、猿との関連性についてはよく分かっていない。おそらくは原始信仰の名残りではないかと推測されている。
 
町田の民話と伝承(町田市文化財保護審議会編)から
土ヶ谷の六本松
相原町の土ヶ谷は第二次世界大戦末期(1944)本土空襲に備え、隠蔽式防空送信所が建設された谷戸であり、この土ヶ谷から旧横山村寺田に出て、八王子宿に向かう峰越えの坂を登りつめたあたりを、六本松といっている。
この峰に登る坂道は急で、ここを通るたびに(鳴呼急だな−)と、思わず出るため息から「鳴急の坂」と呼ばれるようになった。
この土ヶ谷の峰を今も六本松といっているが、寛文7年(1667)の検地帳に記されている字名であり、風当たりの強いこの峰に六本の大きな松があったと思われる。
六本松は別名「物見の松」ともいわれ狼煙場のあった場所だと伝えられている。狼煙場や物見場が土地の支配者にとって大事な場所であったのは、戦国時代までと思われるが、横山庄を支配していた横山党一族が和田の乱(1213)に与して滅亡し、その遺領を与えられた大江氏(長井氏)が支配の拠点とした片倉城(八王子市片倉)、椚田城(八王子市浅川)、小松城(城山町)の三城が見える六本松は、要の位置にあり、後年の小田原北条時代の八王子城と津久井城は、目の前に見えてその展望は素晴しい。
北は相武カントリーのゴルフ場を眼下に奥多摩連峰から八王子市を一望し、南は相模の海に江ノ島を望む。西の大山、丹沢山塊や夕日が沈むときの富士の姿は特に見事である。
この六本松の頂上に土ヶ谷部落の氏神である山王神社があり、創立は室町期の正長元年(1428)以来、実に六百年近く氏子により維持されている。
思うに、狼煙場の伝えのあるこの場所は、非常の時は、神社が詰所の役を兼ねていたのではないかと思われる。
この場所より東に下る道が、新編武蔵風土記稿に記されている上相原の南北往来の古道で、土ヶ谷から湯の入り、滝の谷へと下り、城山町の字下馬へと続く相模の国への道である。
城山町ではここに「下馬梅」伝説の案内板が立っている。参考までに記すと、その要旨は、豊臣秀吉の小田原征伐の時、八王子城が落城しその伝令の騎馬武者が、津久井城へ知らせるためここまで来て津久井城の落城を知り、力を落として下馬してムチがわりの梅の枝を道端に突き刺して休んだ。その梅が根付いて春になると花を咲かせたとのことである。