箭幹八幡宮(やがら) 矢部八幡とも言う

 
Wikipediaから八幡神社について
八幡神を祀る神社は八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。
八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮である。
祭神は応神天皇を主神として、神功皇后、神功皇后を合わせて八幡神(八幡三神)ともしている。神功皇后は応神天皇の母親であり、親子神(母子神)信仰に基づくものだといわれる。比売神はその出自はよく分かっていない。比売神はそれ以前に宇佐に祀られていた地主神だという説や、比売神は宗像三神または市杵島姫命であるという説、近年では比売神はヒミコでありアマテラスであるという説も登場している。
早くから仏教と習合しており、天応元年(781年)には仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられた。これにより、全国の寺の守護神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。
その一方で、八幡神は皇祖神として位置づけられ、天照大神とともに皇室を庇護したとする説もある。中世においては、武家(あるいは源氏)の守護神と皇室の守護神としての八幡神の両面があったことになる。
 
町田市史(上巻)から要約
 矢部八幡神社は付近一帯の鎮守である。近世には箭幹八幡と称した。「風土記稿」に、江戸初期寛文5年(1665)木曽村を知行所とした旗本高木守久の奉納した梵鐘の銘文を掲げ、その文に拠って、昔木曽某というものは創建し、羽を屋上に挿したので矢幹(やがら)と名付けたという伝説を記している。
 享保5年(1720)の社殿再建の棟札に「小山田庄惣鎮守」とあって、木曽・根岸両村名主以下、上小山田・森野・根岸・図師・山崎・原町田・木曽という7ヵ村の氏子が奉斎したことを記しているから、当社が広く付近数ヵ村の畏敬を集めた古社であることは明らかである。  建立の伝説は他にもありるが、立証さるべき文献はない。
 
町田市史(下巻)から要約
推古24年(616)当社が勅令によって勧請された、と「八幡宮記」にある。また、推古天皇病気平癒のため社殿を修造されたともいっている。康平5年(1062)には源義家が先勝を祈願したとの伝承がある。 天明8年(1788)12月には当時の代官梁田隠岐守により社殿の再建あり。その後再々の火災にあう。現存する本殿および随身門は享保5年(1720)の建造になるもの。 祭神は応神天皇を奉斎している。
例祭日9月15日には市無形文化財の獅子舞が奉納される。
 
町田の歴史をたどる(町田の歴史をたどる編集委員会編)から要約
平安時代の中頃(約900年前)、源義家が東北地方で戦ったあと、都への帰り道このあたりで病気になり、八幡宮の神にお祈りしたところ、夢に白髪の老人が現れ弓矢を使って取り憑いていた悪鬼を追い払い快癒した。義家はこの白髪の老人は八幡宮の神と感謝し、荒れ果てていた神社を建て直したという伝説がある。この伝説は物証はないが当時、このあたりを都と東の国々とを結ぶ道があったことを示している。

町田風土記(森山兼光著)から
木曽の神社:推古24年(616)、勅令により勧請されたと八幡宮記に記される八幡社が矢部にあります。社名について武蔵風土記稿は「造営の時に社殿屋上に矢幹をさしたので矢幹八幡になった。」とし、武蔵名勝図絵は「木曽八幡と称するに至った木曽義仲が滅亡したので、木曽を憚り、箭柄八幡に改称した。」と記しています。

 
祭神 応神天皇(おうじんてんのう) 神功皇后
由緒

(要約)


616年勅命により京都石清水八幡宮より勧請された神社。
推古天皇24年(615)創建されたと伝えられる。
神官 常駐  宮司:加藤辰雄

所在地 町田市矢部町2666
『箭幹八幡宮は、多摩丘陵地帯における最もよく規模の整った神社と見られる。往古の鎌倉道に沿うて一の鳥居があり、それより約二町にして二の鳥居を設け、さらに進めば右に鐘楼、左に神楽殿、中央石段上に随神門を設け、更に拝殿、本堂となっている、これらのうち随神門は、この神社のうちで最も古い建築であるが、本殿とともに江戸時代末期のもの。神仏混合建築で、三斗組で間斗束を配し頭間下に幕股を置き、その下虹梁を設けるという珍しい形式となっている。次に本殿であるが、流造の形式、正面に唐破風をつけた一間社の小規模のもので、全体に覆堂がかけてある。正門扉の両脇に龍の彫刻を附し軒下の斗桝は三斗組、縁下の腰組は三手先の挿肘木の手法となり、勾欄、脇障子付、総ケヤキ造、槍皮葺である。 この神社創始年代は不明であるが、祭神は応神天皇とつたえ棟札に寛永(寛政と書き改められている)二年、(1265)享保五年(1721)享和三年(1803)大正四年等四枚である。寛文五年銘で高木伊勢守献納の鐘があったというが、今次の戦争で献納して現存しない。 要するに両部神道系の神社として両部鳥居、鐘楼等があり、また随神門に卍文等が文様中に見られる。』(都文化財調査田辺氏)・・・以上忠生村誌より
町田市有形文化財   随身門
 

 

 

2010/9/19例大祭で拝殿が開いていた。
 

町田市有形文化財   随身門 (要約)

随身門とは神社外郭の門で武官姿の随身像を左右に安置した門をいう。

町田市指定無形民俗文化財   矢部の獅子舞   (要約)
矢部八幡宮の獅子舞は、一説には元亀・天正のころ(1570年代の戦国乱世のころ)から始められたといわれる。獅子舞を関東に流布したのは小田原の北条氏であるともいわれるので、あるいはかなり古い伝統の流れを引くものかもしれない
奉納日は9月中旬である。 詳細はここに
町田の民話と伝承(町田市文化財保護審議会編)から
箭幹八幡宮の由来
矢部八幡宮記によれば、推古24年(616)、推古天皇の病気平癒を祝って、諸国の旧社に修理の役を賜わった。その時、当社も再興の資を賜わった。と記されている。要するに6世紀以前、すでに社祠は存在したことをうかがわせる記述がある。
その後保元(1156〜)、平治(1159〜)の乱のころの不思議伝説には「箭幹八幡と木曽観音の化身」の項のとおりだが、更にその後小山田城主、小山田義重は八幡信仰にあつく、嫡子小三郎に家督をゆずり、自ら覚円坊を名乗り、宮司となった。と記されている。覚円坊は木曽観音堂の別称でもあり、両社の関係の深さがここにも知ることができる。
また、当社は神仏混清時代には、観世音菩薩が併祠されており、その名残りとして、今日でも、観音像は宝物として安置、大吊鐘があるほか、この鳥居と随身門には、卍が残されている。

箭幹八幡と木曽観音の化身
保元平治の乱に敗れた源義賢は、京都をのがれて大蔵の舘を次の本拠にしようとして、木曽を通過したときに、木曽仲三兼任らに迎えられ、軍勢集結につとめたので、勢力も三千余騎になった。いつぽう、源義平は亀田政清や渋谷金王丸などの手勢七百余騎で攻めて来たが、そうたやすく打ち破ることはできない。一進一退の持久戦の状態となったので、義平はさらに京都からの援軍の到来を待つこととした。これを知った義賢は、虚をついて襲撃に転じ、乱戦死斗のすえ義平方を窮地におとしいれ、すでに危うく見えた。
ちょうどこの時に、忽然として激戦場に童子を引きつれた白髪の老翁があらわれいでて、右に左にかけめぐっては、飛来する矢を拾い集めて、兵力の少ない義平方に与え、危険な戦場をおそれるふうがないばかりか、手にした杖を打ち振って両軍に和平をすすめるようすであった。
このありさまを両軍共にいぶかり見つめているうちに、やがて鎮守八幡の森の方に老翁も童子も姿をかき消してしまった。かの老翁は、おそらく鎮守八幡の化身にちがいない。そして童子は観世音菩薩の化身であろう。そう両軍とも信じ、神威のほどにうたれ感じいったのである。かくして、同族の郷党が相争うことの非をさとらされた両軍は、互いに軍を退いて神前に和睦を誓いあったと伝えられている。