小野神社

 
町田市史(上巻)から要約
 古来小野路宿の鎮守である。そもそも小野路という地名は多摩郡小野郷への道筋という意味であろうから、おそらく当地は古く小野郷の分村のような関係にあって、式内小野明神を当地に勧請したのもそのためだろう。式内小野明神は多摩市一宮にある武蔵一宮と称した小野神社と思われる。
小野明神は有力豪族の氏神であったと思われ、「名勝図会」に小野路の小野神社は武蔵野守小野孝泰が先祖の霊をここに祀ったもので、その後小野氏の子孫横山党の人々により当社の祀奠が行われたが、建保・建歴の乱(1210年代)で横山党が大半断絶し当社も衰えた。さらには元弘の乱にこの付近も兵火に罹ったが年を経て再興したという。
 「武蔵国南多摩郡小野路村誌」には、当社は元慶8年(884)一ノ宮村の式内小野社を勧請した社であるという伝承とともに上記「名勝図会」の社説を抄録している。
 鐘銘には応永10年(1403)郷内に住む正弥という僧の勧進によって作られたことが明記されており、室町初期の頃には、もはや横山党の氏神ではなく小野路の宿を中心とする郷民の産土神になっていることを示していると見るべき。
 
町田市史(下巻)から要約
創立の年代は明らかでないが、現在神奈川県逗子市海宝院の寺宝である古鐘の銘に「武蔵國小山田保小野路縣小野大明神宮鐘銘竝序」とあり、年号は応永10年(1403)で古い社である。 寛文6年(1666)の検地の時、文珠(菩薩)領として田一反八歩があったが、明治の神仏分離の際、文珠菩薩像とともに千手院(せんじゅいん)に移した。神仏分離に際して祭神を天下春命として神奈川県に提出したが、明治40年東京都知事に誤謬だとして小野篁に訂正願いを出している。明治21年の村誌によると、祭神は「天下春命或ハ小野篁ノ霊」とあり、天下春命は秩父氏の祖神であり秩父神社の祭神でもある。(上記いきさつを示している)
明治年間合祀の時各谷戸に鎮座する13の社を当神社に合併奉遷した。 末社に天満宮八坂神社がある。
これを祈念して秋の例大祭は9/13となっていたが、その後週末の人出を考えて前後の週末に変更している。

小野神社御輿(小野神社御輿保存会編)から要約
明治33年には小野路のみで14社あったが、明治39年の神社合祀令により小野神社に合祀された。それら14社を以下に示す。 小野神社(小字馬場)、熊野神社(小字長畑)、子ノ神社(小字後)、諏訪神社(小字後)、菅原神社(小字馬場)、日吉神社(小字向坂)、八幡神社(御字新屋敷)、稲荷神社(小字清田谷)、浅間神社(小字富士ノ沢)、日吉神社(小字石久保)、稲荷神社(小字瓜生)、稲荷神社(小字長畑)、熊野神社(小字下堤)、日吉神社(小字下堤)

町田風土記(森山兼光)から
小野路の神社:元慶8年(884)創建の小野神社には、熊野(2)・日吉(3)・菅原・諏訪・八幡浅間・子ノ神・稲荷(3)の13社が明治年間に合祀されている。
 

多摩丘陵フットパスまつり」には次の記述がある
ご祭神の天下春命(あめのしたはるのみこと)は秩父や出雲国とも関係があるらしいのですが、詳しいことは、諸説があってわかりません。
ここは、徳川家康の遺骨を遺言通りに駿河の久能山から日光東照宮に移した際の千人行列?も通って行きました。足柄の矢倉岳前を通るから"矢倉沢古往還≠ニもいう古道沿いにあたります 。
 
祭神 小野篁 (おのたかむら)
明治の神仏分離の際、祭神を天下春命としたが、その後小野篁に訂正している。
由緒 天禄年間 (970〜973)に小野篁を祀ったことに由来する。由緒書きからはこの程度しか分からない。明治になっての国家神道を目指して記紀神話から神を貼り付けたものだから、由緒書きには明示してないのでは無かろうか。 風土記によると元慶8年(884)創建とある。
現在の社殿は昭和3年4月3日の再建である。
神官 常駐せず 宮司:不明

所在地 町田市小野路町  例祭:9/13近辺の週末

道路から見た神社 鳥居 拝殿横の復刻された宮鐘 合祀された神社の名残
 
権現造りの社殿。 拝殿脇に神社では珍しい梵鐘が架かっている。これは戦後に寄進されたコピーで、神社に伝わっていた本物は逗子の海宝院という寺に神奈川県指定文化財として保存されている。戦国時代の文明年間、両上杉の合戦のさなか山内上杉軍によって「陣鐘」として持ち去られたもの。