浅間神社

 
小野路・小山田の里道を歩く」には次の記述がある
浅間神社は富士山を御神体とし、祭神は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)である。本宮は静岡県富士宮市にある。神話によれば木花開耶姫は大山祇神(オオヤマヅミノカミ)の娘で、天照大神(アマテラスオオミカミ)の命で天孫降臨した瓊瓊杵命(ニニギノミコト)に見初められ一夜にして妊娠した。そのため夫の瓊瓊杵命は自分の子ではないのではと疑念を抱いた。木花開耶姫は身の潔白を証明するため産室を密閉して火をかけ、燃え盛る炎の中で出産した。そのため木花開耶姫はいつしか火を吹く富士山の女神になったという。
 
本殿前に社殿造営記念碑があるが、この書は富士山本宮浅間大社 宮司土屋正治謹書とあった。 従って富士の浅間神社との関係を示しているものと思う。
 
Wikipediaから浅間神社について
浅間神社(せんげんじんじゃ、あさまじんじゃ)は、富士山の神霊浅間大神と木花咲耶姫命を主祭神とし、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本社とする神社である。 中には、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。
浅間神社は富士山信仰と結びつくものであり、富士山の周辺や富士山が見える関東一円を中心に分布している。関東では、富士塚と称する富士山を模した築山の山頂に祀られていることも多い。また、境内に富士講の石碑が建てられている浅間神社も多くある。
また、富士山がしばしば噴火をして山麓に住む人々に被害を与えたことから、噴火をおさめるために火の神または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を神体として勧請された浅間神社も多い。
 
小野神社御輿(小野神社御輿保存会編)から要約
勧請の時期不明。江戸時代に富士浅間領として除地、田1反8畝23歩、畑4畝8歩の記載がある。
(小野路の神社は、明治39年の神社合祀令により小野神社に合祀されたはずだが、この神社が現存している理由は分からない)
 
祭神 浅間大神、木花咲耶姫命
由緒 由緒書きなし
神官 常駐なし 宮司:不明

所在地 町田市小野路町 秋の例大祭:7/15?

多摩市に近い山の中に鎮座している。 道路から玉砂利が芝に覆われたまっすぐな参道を通る。入り口には「男坂」と荒々しさを強調している。鳥居を摸したような門柵から参道が続いており、途中に石の鳥居がありその先から急坂が左に曲がり上り詰めたところに本殿がある。
本殿前面には引きが無く、正面からの撮影は出来なかった。
 
町田の民話と伝承(町田市文化財保護審議会編)から
野津田から運んだ中宮
昭和31・2年(1956〜7)ころ、野津田神社の中宮を新築することになり、古い中宮が不用になってしまった。おたきあげ(神社で庭火をすること)をするかして、処分しなければならない。小野路の町内会の役員がこの話を聞いて、協議した結果、小野路でもらって浅間神社の社殿として使うことに意見が一致した。浅間神社は、明治42年 (1909)に小野神社に合祀してから、神社の社殿がなかった。このころは、小野路にはトラックはなく、トラックのゴムタイヤを後輪につけた、大型の四輪の牛車を借りて、中宮を運搬することになった。野津田神社のなかから、中宮を出してみると、思っていたよりも大きなものであった。小野路から人足として40人もの加勢がいたので、力を合わせて牛車に乗せた。このころは、道路の道幅も狭く、中宮が民家の植木の枝にかかったりするたびに、その家に断って枝を切らせてもらっては、ゆっくり進んだ。並木から向坂を下り、宿を抜け辻を左折して橋をわたり、右折したところが、急カーブで急坂になっており、ロープを長くすると、道路が直角に曲がっているため力が入らない。何度も行ったり、戻ったりしてようやくのことで、浅間神社まで一日かかって運んだ。当時は自動車も少なかったので、ゆっくりと運ぶことができた。この後、浅間神社は6月1日に大祭が行われ、平成4年秋には木造で新築され、野津田から運ばれた中宮は、中に安置されている。ちなみに、浅間神社の祭りには、大きな大福餅を売り、これを食べると一年間健康に暮らせるという。