神明神社 |
新編武蔵国風土記稿から要約 社地無年貢地十間四方 字田中谷にあってこの辺の鎮守なり。 勧請の年代を伝えずふめい。 神体は白幣なり。 わづかなる社にて前に鳥居を立つ。石段27段ほど例祭9月9日持宝院もち。 |
町田市史(上巻)から要約 寛文元年(1661)田中与五兵衛を本願とする青銅製の御正体(みしょうたい 神体)を祀り、享和3年(1803)に新羅三郎義光より22代と称する田中貴長の奉納した扁額には小山田次郎義重の草創という由緒を記しており当社が当地の 地侍田中氏の後裔を中心として奉斎してきたことがわかる。 |
町田市史(下巻)から要約 当社の見取り図の裏面に貞応年間(1222〜4)小山田次郎義重の創立になるものであると享和3年(1803)に後のために書き残すとあり、元和元年(1615)12月吉日、延宝6年(1678)12月、元禄12年(1699)1月、正徳2年(1712)正月、享保13年(1728)、明和2年(1765)、安政4年(1857)と7回の多きに及ぶ再建をしたことが社宝の棟札にある。寛文元年今月今日の銘のあるご神鏡を奉安している。 明治7年(1874)にそれまで田中谷戸873番にあった山王社に、神明社、天王社、稲荷神社、神明社の4社を合祀し、同所より平に移り、明治8年社名を神明神社と変更した。毎年祭礼には湯花の神事を行う。 例祭日は毎年8月25日。 |
Wikipediaから 神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。 祭神の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集めた。 古代においては王家のみの氏神として、王家以外の奉幣は禁止されたが、中世に入り朝廷が衰微するに伴い、伊勢神宮の信者を獲得し各地の講を組織させる御師が活躍し、王家のみの氏神から日本全体の鎮守としての存在へと神社の性格は大きく変わった。また、布教とともに各地の有力者による神領(御厨)の寄進が行われ、その地に伊勢神宮の祭神が分霊され、神明神社が広範囲に分布することとなった。特に神仏習合の教説において神道側の最高神とされたことなどにより近世に至り一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになると、新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになった。 町田風土記(森山兼光著)から |
|
|||||||||||
![]() |
|||||||||||
|
![]() 新編武蔵風土記稿によると、「社地、無年貢地10間四方、字田中谷戸にあり、此辺の鎮守なり、勧請の年代を伝えず、神体は白弊なり、わずかなる社にて前に鳥居をたつ、石階27級ほどあり、例祭9月9日、持宝院持、下の7社並みに同持なり」 下の7社というのは、山王社が4社、神明社、天王社、稲荷社が各1社をいうので、神明社はもと小名、田中谷戸873番地にあったが、同所より現地の小名平(たいら)の山王社地に明治7年8社を合祀、8年に移転したのであります。 「勧請年代を伝えず」とあるのですが、 1、延宝6戊年12月吉日 奉再興神明天照皇太神宮武運長久 氏子 上小山田別当持宝院 田中村氏子 1、元和元年12月吉日 1、元禄12年1月 1、正徳2年正月 1、享保13年 1、明和2年 1、天明5年 1、安政4年 の棟札があり、神鏡に 1、鏡、寛文之辛丑年今月今日神主持宝院 奉願 田中与五兵衛 |