町田市史(上巻)から要約 熊野信仰は紀伊の熊野三山、すなわち本宮・新宮・那智社の神々を対象とする信仰で、平安時代以降熊野権現と称して、修験道の信仰対象になり、熊野詣での風習は貴族から上流武士におよび、室町時代には地侍・名主層に広まった。この熊野信仰は天台宗系の修験者の布教活動に負うところが大きかった。修験者は熊野の護符である牛王宝印(ごおうほういん)の頒布などを行い熊野権現の霊験を宣伝し熊野参詣の先導をする先達となった。 講中の信徒は先達の案内で熊野にいたり、それぞれ特定の御師の宿坊に泊まった。御師は祈祷師であると共に宿坊の経営者で、各地の先達を通じて信徒と師檀関係を結び信徒はそれぞれの御師の檀那になった。こうした熊野信仰の普及と共に各地に熊野神社が普及し熊野神社が勧請されていった。市内の熊野神社は、いずれも勧請の時代を伝えていないが、室町時代に於ける熊野信仰・熊野参詣に関連しているものと思う。 |
町田市史(下巻)から要約 創設の年代はつまびらかでない。享保11年4月(1736年)に本殿を建立したことが本殿の左右の扉に墨がきで記してある。 延享3年(1746)3月の「村差出帳」に除地官免として畑1町帳5反とあり、また明治3年(1870)11月には熊野権現除地の畑3町歩ほどとあったが、第二次大戦後の農地解放により今はない。 内宮の中に木彫りで座像のご神像を安置してる。 安永6年(1777)8月、安政5年(1858)11月21日、昭和11年(1936)11月19日と再建しており、現在の社殿は昭和46年4月3日権現造りの鉄筋コンクリートである。 境外末社は町谷に鎮座の八坂神社、悪病除の神と崇めている。祭礼は7月14日。大ヶ谷に鎮座の日枝神社、大六天社も同じ境外末社であり、4月20日が祭礼日。本社の例祭日は毎年9月19日。
鶴間郷土誌(井上茂留著)より |
町田市消防団WEBから 宗教法人 鶴間熊野神社 創建 祭神は、伊装諾命(いざなぎのみこと)、伊装册命(いざなぎのみこと) この神様は、出世、家門繁栄及び交通安全の守護神として平安時代以来、熊野詣での風習になり熊野3社(本宮、新宮、那智社) の講中が出来ました。現在は、町谷及び鶴間両地区の氏子により運営管理がなされており、神社本庁より非常に格式の高いお宮 と認定されています。 現在の社殿は、昭和46年4月に鉄筋コンクリート造りで再建され、また神楽殿は、平成4年10月に落成されました。 |
Wikipediaから 熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から勧請された神社を指す。 有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。しかしながら、中世熊野詣を担った京からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、歴史の表舞台から退き、かわって、東国の武士や有力農民が前面に出てくるようになる。 こうした一般の参詣者とそれに伴う収入に経営の基盤を求めた13世紀半ば以降の熊野三山は、全国に信仰を広め、参詣者を募るため、山伏や熊野比丘尼を各地に送り、熊野権現の神徳を説いた。この過程で、全国に数多くの熊野神社、すなわち熊野三山から勧請された神社が成立した。 |