杉山神社

 
杉山神社について
ネットで杉山神社を検索すれば沢山のサイトが見つかる。それらを簡単に纏めると、
1)杉山神社は武蔵の国にのみ存在し72社あった。(町田市内に5社ある)
2)由緒がはっきりしている社はない。
3)祭神は五十猛命、日本武命を祀っているところが多い。
 
町田市史(下巻)から要約
田中の明神という。寛文8年(1668)11月、当時の代官福井清兵衛が200疋の寄進と地頭の井戸忠兵衛勝吉が金三分の寄進により社殿を創建。
元禄12年(1699)11月21日、享保元年(1716)11月、安永3年(1774)9月、寛政2年(1790)12月、享和二年(1802)9月と5回におよび再建したことが社宝の棟札にある。一社相殿造りで主祭神の日本武尊を中央に、右に天照皇大神、左に熊野大神を合わせ奉斎してある。真言密教により黒と丹にて彩色してある。
境内末社は安永3年6月15日の創立で悪病除の神である八坂神社を奉斎し7月14日が例祭日である。
参道正面の岡部鳥居は天保14年9月20日の造立。現在の社殿は昭和31年4月15日のものである。(その後移転している)
町田町の歴史第二巻(市教育委員会編)から要約
数多い鶴見川支流恩田川沿岸の杉山神社の最上流に位置するお宮であり、「新編武蔵風土記」には、勧請年代 不詳、祭神 高座雲命(玉大猛命) 杉山社はキ筑郡の式内社なればこの社も古き鎮座ならん。図師修験大蔵院持ち。としている。 棟札の寛文8年以降も恩田川の氾濫によってしばしば流失し再建の記録があることから、おそらく長く荒廃していたものを、福井、井戸の両氏が再建したと見るのが妥当だろう。 徳川時代創立とは考えられない。

成瀬郷土史研究会「成瀬」から要約
恩田川沿いに開けた水田地帯の中央に、数多くの樹木に囲まれて鎮守杉山神社はあった。「新編武蔵風土記稿」二期祭の杉山神社72社のうち、祭神が明記されているものは、茅ヶ崎社とここ成瀬社だけである。主祭神の日本武尊を中央に、右に天照大神、左に熊野大神を合わせ奉斎している。境内にあった末社は安永3年6月15日の創立で悪病除けの牛頭天王(八坂神社)である。弘化3年(1846)に原の牛頭天王、文久元年(1861)に谷戸上合の牛頭天王が合祀されたもの。
昭和40年都市計画路線の決定により、周囲の水田は住宅用地として都に買収され、道路網その他の関係から、神域の移転を迫られた。当初東京都は近接地に移転の意向であったが、氏子からなる対策委員会は高層建築物の谷間に鎮守を祀ることは氏子感情として耐えられないと、東雲寺に隣接の現在地を指定した。新神域の方が地価が高く、補償費の他3年計画での氏子負担で賄った。
東雲寺は「田中の明神」から離れていたが、これにより、鎮守様が寺の近くに移り、氏子も檀家も同じ人たちである。
 

祭神 天照大神  (あまてらすおおかみ)・・・慈愛の神
五十猛命 (いそたけるのみこと)・・・木の神・交通安全・病気平癒
熊野大神 (くまのおおかみ)・・・水の神・五穀の神・商売繁盛
八坂神社が合祀されている。
由緒

(要約)
成瀬杉山神社の創建年代は不明であるが棟札によると寛文8年(1668)代官福井氏と地頭井戸氏により社殿が創建されたとある。「田中の明神」として崇敬されてきた。
現在の社殿は昭和57年竣工したもの
神官 常駐せず  宮司 池田正盛(町田の歴史をたどる から)

所在地 町田市成瀬1341番 (2014年5月自由民権資料館の資料により番地を変更した)

 
鳥居のそばに「新築造営祈念碑」があり、大略次のように記述されている。
昭和40年代の高度経済成長に伴って都市化の波が押し寄せ、成瀬1341番地で長い間「田中の明神」として親しまれていたが、都市計画道路整備と都営住宅建設のため、現地に遷宮するにいたり、昭和57年竣工、昭和59年遷宮した。

成瀬郷土史研究会「成瀬」に旧杉山神社の写真があったので掲載する。

開発で取り壊される前の杉山神社

天保14年に造立された木造両部鳥居

本殿覆屋と共に取り壊された本殿内部

三間社流造では市内最古のものであった
 
町田の民話と伝承(町田市文化財保護審議会編)から
成瀬の杉山神社こしかけ田
成瀬の杉山神社跡地の近くに「こしかけ田」と呼ばれる田んぼがあった。現在は成瀬団地・都立成瀬高校・音響機器メーカーなどの大きなビルが立ち並んでいるが、かつては見渡す限り一面の田んぼで、その真ん中に大きな木々に囲まれた鎮守杉山神社が建てられていた。杉山神社は、江戸初期の寛文8年 (1668)にはすでにその場所にあった。しかし、それ以前には鎌倉街道を見おろす山の上(現在の成瀬センターの裏山)の中村と三ツ又の境の尾根に造営されていたが後に街道筋の田んぼの真ん中に移されたものだと言い伝えられている。
社を移すことがきまったある日のこと、村人が総出で山の上から引っぱって下の街道までおろし、そのまま南の方角になおも引っぱっていった。もともと何本かの木が生えていた田んぼの真ん中を神域と定め、土を運んだりならしたり、木を植えたりした。その新しい境内地へと苦労しながら社を引っぱった。ところがどうしたことか、もう少しで境内に入るという所で社が動かなくなってしまった。 日も暮れかかっていたし、あせればあせるほど、社はびくともしなくなってしまった。とにかくひと休みしてからと一服した。疲れをとって今度こそと、みんなで大きなかけ声を合わせて再び引っぱった。それでも社は少しも動かなかった。「きっと、神さまも腰かけて休んでいられるのだろう、またあした引っぱろう」ということになり、一晩、神さまはそのままそこでお休みになられた。
そんなことがあって、いつとはなく村人たちはそこを「腰かけ田」と言うようになった。