南大谷天神社

町田三天神(菅原神社町田天満宮・南大谷天神社)の一つ

Wikipediaから
天満宮(てんまぐう、てんまんぐう)は、菅原道真を祭神とする神社。政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった御霊信仰の代表的事例である。「天神」(てんじん)、「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社(てんまんじんじゃ、てんまじんじゃ)、祭神の生前の名前から菅原神社(すがわらじんじゃ)、天神を祀ることから天神社(てんじんしゃ)などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。ただし、「天神社」については、天津神を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がない。
道真を「天神」として祀る信仰を天神信仰という。
道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになった。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という。
 
町田市史(下巻)から要約
正保2年(1645年)8月に嶋山法春によりご神像を作ったのであり、その頃の創建と思われる。享保5年(1720)2月25日、願主の五十嵐伝兵衛敬孝が、ご神像を大佛師康伝により修飾したことが仕立書にある。社宝の神額は安永4年(1775)5月25日正一位天神宮の金文字で、金龍山月寺の長運観守の書である。文化7年(1810)9月25日社殿を改築。現在の社殿は昭和35年9月20日新造のもの。 例祭日は毎年9月25日。
 
祭神 菅原道真公
由緒

(要約)

正保2年(1645年)大谷村村長五十嵐次郎左衛門が島山屋法春に 像をつくらせ天満宮を鎮守とした。
現社殿は昭和39年(1964年)の建立。町田三天神の一社で京都北野天満宮を本社とする。
神官 常駐せず  宮司:池田 豊

所在地 町田市南大谷451番

本殿左に稲荷神社が祀られている。
 
町田市有形文化財  本殿は町田市文化財に指定されている。

本殿は本格的な一間社流造(いっけんしゃながれつくり)で、細部に至るまで地方的な作風でなく、中央の系統につながるもの。神像の胎内文書から本殿の建立時期は17世紀中頃と思われる。

石段の途中に「南松寺」がある。禅宗南松寺は南大谷天神社と同時期に創建され、200数十年天神社の管理を行い共に栄えていたが、明治4年太政官布告により、廃宗廃寺になった。・・・・と由来が書いてある。 結局神仏分離で、泣く泣く天神社を取ったのだろう。

町田風土記(森山兼光)によると
南大谷には、普化宗南松寺は明治4年、宗派不明の坊山は明治11年頃に廃寺になり現存する寺院はない。

町田の民話と伝承(町田市文化財保護審議会編)によると(要約)
南松寺があった場所は、南大谷天神社の現在の社務所の南側といわれてきた。正保2年(1645)の天神社の開創と同時期に別当寺として創建され、普化宗・大谷山南松寺と称した。寺名の由来は、天神社の南で、古木の松杉がうっそうと茂っていたところからとったものであろう。創建以来、普化宗の寺として広く信仰を集めてきたが、明治4年(1871) の太政官布告により、廃宗・廃寺となった。それ以後「幻の虚無僧寺」となり、跡地は荒廃地に変わっていたが、昭和38年(1963)以降、天神杜氏子一同によって遺物の発掘と保全が行われた。虚無僧寺の遺物は、全国でも珍しい歴史遺産といわれている。