日枝神社

 
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大山咋神(おほやまくひのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ) 伊弉冉神(いざなみのかみ) 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。

日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。神仏習合期には山王(さんのう。山王権現、日吉山王など)と称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。猿を神使とする。
山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉(ひえ)神社(大社)の別名である。

日吉神社は、もともと近江国日枝山(ひえのやま:後に比叡山の字が充てられた)の神である「大山咋神」(おおやまくいのかみ)を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年である天智天皇七年(668年)、大津京鎮護のため大和国三輪山(三諸山(みもろやま)とも)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請しともに祀られた。

比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、大山咋神・大物主神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされた。唐の天台山国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていることに因み、延暦寺ではこの両神を「山王」と称した。

そして天台宗・延暦寺の守護神としての崇敬が、山王信仰へと発展しやがては「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。また天台密教は、鎮護国家、増益延命、息災といった具体的な霊験を加持祈祷によって実現するという体系(使命)を持ち、山王にも「現世利益」を実現する霊威と呪力を高める性格を与えたようである。

天台宗が全国に広がる過程で、山王信仰に基づいて日吉社も全国に勧請・創建された。日吉(ひよし)神社・日枝(ひえ)神社、あるいは山王神社などという社名の神社は、日本全国に約3,800社ある。神仏習合期には山王(山王権現・日吉山王など)と称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。日吉神社の神使は猿であるが、猿との関連性についてはよく分かっていない。おそらくは原始信仰の名残りではないかと推測されている。
 
祭神  
由緒 東急の宅地開発時に移設されたようだ。
神官 不明

所在地 町田市南つくし野2−20

丘陵地の南東斜面にある。鳥居の額束には何も記載がない。その他この神社が日枝神社であることを示すものは何も見つからない。拝殿の中には木製の祠が鎮座しているのみである。この神社は二本の道路に挟まれているが、写真に見るように2〜30mの段差がある。道路から数段の階段を上がり左に神社があるが、右側は墓地である。丘陵地が開発され宅地になったとき、この部分だけ残されたような感じである。
 
このWEBを見た方からメールがあり、
「つくし野中学校が現在ある場所にあり、移転させたものだと聞いております。隣の墓地も、各農家の場所に点在していたものを、東急が宅地開発する際にまとめたものだということです。」とのこと。 
その後再びメールがあり
20年ほど前に発行された自治会の記念誌に、地元の方の対談があり、日枝神社についての記述もありました。それによると、「つくし野中学校のあたりは当時このあたりで最も高く、『山の神様』(山王様)と呼ばれるお宮があった。お宮のさらに上には『六夜塚』があり、月の26日に月見をしながらお神酒を飲んでいた。」ということです。
南つくし野は、以前「小川」という字だったため、このあたりの氏神様はつくし野の杉山神社です。昔からのお宅は、ほとんど杉山神社の氏子です。

この神社より約200m北北東につくし野中学があり、その当たりから宅地開発の伴って移されたもののようだ。更にその北1Kmに杉山神社があり、昔からのお宅は殆ど杉山神社の氏子だったようだと言う事は屋敷神が宅地開発で外に出た物ではなかろうか。