熊野神社三輪 

 
町田市史(上巻)から要約
熊野信仰は紀伊の熊野三山、すなわち本宮・新宮・那智社の神々を対象とする信仰で、平安時代以降熊野権現と称して、修験道の信仰対象になり、熊野詣での風習は貴族から上流武士におよび、室町時代には地侍・名主層に広まった。この熊野信仰は天台宗系の修験者の布教活動に負うところが大きかった。修験者は熊野の護符である牛王宝印(ごおうほういん)の頒布などを行い熊野権現の霊験を宣伝し熊野参詣の先導をする先達となった。
講中の信徒は先達の案内で熊野にいたり、それぞれ特定の御師の宿坊に泊まった。御師は祈祷師であると共に宿坊の経営者で、各地の先達を通じて信徒と師檀関係を結び信徒はそれぞれの御師の檀那になった。こうした熊野信仰の普及と共に各地に熊野神社が普及し熊野神社が勧請されていった。市内の熊野神社は、いずれも勧請の時代を伝えていないが、室町時代に於ける熊野信仰・熊野参詣に関連しているものと思う。

町田市史(下巻)から要約
当社も椙山神社と同じ元慶元年(877)大和國の城上郡三輪の里より勧請との伝承がある。「明和4年(1767)10月」の銘のある古い三本立ての神弊の台座に「別当高蔵寺住法院亮怡」とある。 また、「嘉永7年8月」の銘の石像三尊仏が奉斎してある。
現在の社殿は昭和48年10月21日の再建のもの。 境内には町田市名木百選のアカガシがある。 例祭は毎年9月27日。

町田風土記(森山兼光著)から
元慶元年(877年)創建と伝えられる杉山神社と熊野神社がある。 明治21年の「村誌」に記されている大戸社は廃されている。(廃止年代不詳)

 
祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)
由緒

(要約)

元慶元年(877年)大和の国城上三輪の里(奈良県桜井市三輪)より勧請との伝承あり。明和4年(1767年)社殿造営され鎮守の神、氏子の崇敬の的となった。
嘉永7年(1854年)石像の三尊仏(社宝として現存)を造立して再建を図った。
現社殿は昭和48年造営された。町田市文化財に指定
神官 常駐せず。  宮司:町田市能ヶ谷 池田豊

所在地 町田市三輪町1925番
町田市名木百選 アカガシ  樹齢300年以上

2段重ねの鳥居、狛犬も灯籠もありそれなりの風格がある。
 

町田市有形文化財

本殿は神社覆屋内にあり町田市文化財に指定されている。

町田の民話と伝承(町田市文化財保護審議会編)から
町田市三輪町について、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」によると、「三輪村は、家数102軒。東は麻生村、東南は寺家村、南は奈良村、西は岡上村に接し、村の境界は多く都筑郡に囲まれている。ただ北方でわずかに郡中の能ヶ谷村につづいている。」と、紹介されている。この頃、既に三輪村や奈良村が存在していたことが分かる。そして更に、水田は三分の一、陸田は三分の二、谷々から湧出する水を溜池にたたえて用水としている。田畑のほか山林、秣場(共有の草刈り場)があったと、当時の人々の生活の様子が描かれている。
現在の「山谷」の集落は、戸数12戸で、急激に発展した町田市にありながら、今なお緑豊かな閑静な谷間の里といった感じの、当時の三輪のむらを彷彿とさせてくれる。
三輪の地域は、古墳時代から奈良時代にかけて、急速に発展してきたことが、椙山神社や熊野神社の考察、並びに数多く発掘されている住居跡や横穴墓群等からも分かる。
上には熊野神社が、下には椙山神社があり、それぞれの村の鎮守として祀られてきた。先に述べた奈良県桜井市大字三輪に在る大神神社の社史には、武蔵国の三輪神社(上下二社)に、ご祭神(大物主神)を贈られたと明記されているとの事、つまり、上三輪の熊野神社と、下三輪の椙山神社は、大和の国の三輪明神、大神神社の末社であることが確認されている。
なお、古文書によると、第56代清和天皇の御代というから、千百年余り昔に遡るが、大和国城上郡三輪ノ里の大物主神社(大神神社)の社史として、斉藤氏、荻野氏を遣わされて移住させ、三輪の名称がつけられたと記されているとのことである。
現在の熊野神社と椙山神社は、いつ頃、どの様なことから改称されたのかは定かではないが、興味のあるところである。何れにしても、悠久の歴史の中で、国のまほろば大和と縁の深い三輪の町名が生まれたのは確かなようである。
 
Wikipediaから
熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から勧請された神社を指す。
有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。しかしながら、中世熊野詣を担った京からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、歴史の表舞台から退き、かわって、東国の武士や有力農民が前面に出てくるようになる。
こうした一般の参詣者とそれに伴う収入に経営の基盤を求めた13世紀半ば以降の熊野三山は、全国に信仰を広め、参詣者を募るため、山伏や熊野比丘尼を各地に送り、熊野権現の神徳を説いた。この過程で、全国に数多くの熊野神社、すなわち熊野三山から勧請された神社が成立した。