町田市の遺跡

町田市立博物館を訪れたとき、「見学できる町田の保存遺跡」と言うパンフレットを入手した。 たまたま体力維持のために歩くことを始めたことと重なり、パンフレットに出ていた遺跡を意地もあって巡り歩いた。  結局10日ほどで踏破した。(一部交通機関を使ったが)

町田市考古資料室に町田市内の出土品 が展示されているとのことなので訪問した。なるほど出土品が展示されていたが、ここに示す保存遺跡のものはなかった。

これら保存遺跡からの出土品が見られると、更に満足感が増すと思うのだが・・・・。

 

田端環状積石遺構

この遺構は、発見当時のまま公開されていたが、石の位置がずれたり、無くなったりしたため、保存のためそのまま埋め戻し、その上に小山ヶ丘小学校の児童などが河原から拾ってきた石なども用いてレプリカを作成したもの。(2006/4月)
発見当時の状態は、下のリンク先に当時の写真が示されている。
町田市教育委員会
パンフレットより
この遺跡は今から約3500〜2800年前の縄文時代後期から晩期にかけて作られた共同墓地と祭りを行った場所。
昭和43年に調査され、46年に東京都史跡に指定された。
リンク集
参考にしたWEB
さがみはら百選板東千年王国東京の縄文ランドスケープ観測の遺跡縄文学研究室管理人
探しやすさ ○ 京王多摩境駅から5分程度。 多摩ニュータウン通りをまたぎ、橋本方向に少し歩く。
多摩ニュータウン通りに面した入り口も整備され分かりやすい場所である。
遺跡から丹沢山塊の向こうに富士の頂上が頭を出しているのが見える。もっと早朝の空気の澄んでいるときに撮りたいもの。
この位置から冬至の日に丹沢蛭ケ岳(丹沢山塊の最高峰 1673m)に太陽が沈むと言うことなので、(今年は12月22日)覚えておこう。 2006年冬至の状況はここに。
この遺跡に表示されていた町田市教育委員会の説明文。中央の2枚は横長のものを分けて撮影した。
復元されたストーンサークル。 周辺は芝生の広場になっている。
 
 

小山田1号遺跡

 
町田市教育委員会
パンフレットより
鎌倉時代〜室町時代にかけての武士の屋敷跡。崖を切り崩し幅50m、奥行き15mほどの平坦地を作り、ここに12X6mの竪穴状遺構(倉庫であろう)や桁行4間(8m)X梁行2間(4.1m)の堀建柱建物(住処であろう)などを建て屋敷地としていた。
昭和45/46年、56/57年に調査され、昭和60年東京都史跡に指定された。
リンク集
参考にしたWEB
町田市ホームページ多摩地区の古城
探しやすさ △ 見つけ難い。下にも書いているが、距離は短いものの「この道で良いのか」と疑心暗鬼で歩く事になる。
町田街道常磐交差点から約700m上った先を右折するのだが、そこには何の道しるべもない。右折後曲がりくねった道を下ると写真のような小さな石標が現れた。 実はここまで来れば、石標が無くても遺跡は見えているのだが・・・・。
遺跡に表示されていた説明文。経年変化が激しく読み難い。遺跡の補修が始まっているが、補修にあわせて更新するのだろう。
今回の補修の主目的は、掘削後の表面の簡易皮膜にクラックが走り、その埋め合わせが主体とのことであった。 写真に亀甲状に黄色の線が描かれているが、これが補修すべきクラックである。

壮大な崖地の切り崩しであるが、崖上には土地があるにも拘わらず、なぜこのような所を選んだのか、理由が知りたいもの。 説明文が風化して読めないのはいただけない。

 

本町田遺跡

 
町田市教育委員会
パンフレットより
縄文時代と弥生時代の集落跡。 約5500年前の縄文時代前期の竪穴住居跡4軒、約1900年前の弥生時代中期の竪穴住居跡7軒が見つかり、縄文と弥生の住居が1軒ずつ復元されている。
昭和42/43年団地を造るときに調査され、平成4年に東京都史跡に指定された。
リンク集
参考にしたWEB
東京・町田からの便りシルクロードクラブきてみて町田
探しやすさ  ○ 町田市博物館に隣接しており、分かりやすい。
入り口にある説明板
見学者用に東屋が造られてあり、そこの説明文。
縄文時代前期の復元住居
弥生時代中期の復元住居
  それにしても、この復元住居はどのくらいの精度があるのだろう。
2008年12月18日訪れてみたらこのような状態になっていた。工事期間の表示もないので何時できあがるのか分からないが・・・・。
縄文時代の跡
弥生時代の跡

高ヶ坂遺跡

 
町田市教育委員会
パンフレットより
かっての丘陵地における住居跡発見の第一号として大正15年に国史跡に指定された。この遺跡は牢場、稲荷山、八幡平の3つの遺跡からなり、牢場遺跡では縄文時代中期末(約4000年前)の敷石住居跡、稲荷山遺跡では縄文中期から後期の配石遺構、八幡平遺跡は縄文時代早期(約8000年前)の竪穴住居跡と中期末の敷石住居跡が調査された。
リンク集
参考にしたWEB
町田市ホームページ
探しやすさ  ○ 道路に面したところに石碑が建っており、ここが稲荷山。この石碑から入ってゆくと牢場遺跡で覆家で保護されている。八幡平の石碑はここから約800m北にあり、これを見つけるのは非常に困難。
道路に面してこの表示がある。非常に分かりやすい。
牢場遺跡の覆家とその内部である。
左の石碑は道路に面して設置されてあるが、この位置は稲荷山遺跡の位置でもある。 この横から少し入ったところに、牢場遺跡がある。

右の石碑は、牢場遺跡より北へ約800m離れた八幡平遺跡のもの。市教育委員会に尋ね頂いた詳細地図をコピーしたものを見ながら突き止めたが、それでも簡単ではなかった。
   
 

三輪瓦窯址

 
町田市教育委員会
パンフレットより
奈良・平安時代の竪穴住居跡5軒と瓦を焼いた窯跡1基が見つかり住居跡は出土した遺物から瓦の生産に携わった人たちの住まいや工房らしいことが判明。 色タイルや盛り土で住居と窯の位置が表示されている。
リンク集
参考にしたWEB
 
探しやすさ  ○ 鶴川緑山住宅入り口にある、ゆりの木通り公園の中にあり、分かりやすい。
説明文
         
瓦を焼いた窯跡(登り窯)
住宅跡
   
 

玉田谷戸横穴墓群

 
町田市教育委員会
パンフレットより
昭和2年に内部に「家形彫刻をもつ横穴墓」として学会に発表され東京都旧跡に指定された。4基ある内2基の玄室内部の天井 や側面に家形の用材が浮き彫りにされている。
リンク集
参考にしたWEB
 
探しやすさ  X 町田市側からは非常に困難。横浜市青葉区鴨志田町側から入ることを勧める。それでも見落としやすい。
墓群の近くにある説明。 山道を下を向いて歩いて見落とし通り過ぎてしまった。
玄室内部を撮すには、カメラ内蔵のストロボでは力不足である。 そこでリモートで発光する外部ストロボを柵の間から手を伸ばして置いて、カメラは柵の外から撮したもの。内部の細工を良く撮すことが出来たと思っている。 上の写真が1号横穴、下が3号横穴である。
非常に珍しい内部の細工であり、入り口の柵から覗くだけでは真っ暗で何も見えない。人里離れており管理も困難だろうが、照明を付けるとか、内部の写真を展示するとか工夫が欲しいもの。
  現状では横穴の入り口も分かり難く、柵もひっそりと置いてあるだけ。白坂横穴墓群は目立つ手すりで誘導するようになっている。存在を示すための何んらかの工夫が欲しい。
 

白坂横穴墓群

 
町田市教育委員会
パンフレットより
昭和36年に調査され2つのグループで合計13基見つかった。そのうち2基は保存され見学しやすくなっている。 昭和50年町田市史跡に指定された。
リンク集
参考にしたWEB
町田市ホームページ東京市町村の史跡散歩コース
探しやすさ  X 見つけにくい。付近の人に聞いても簡単ではない。運もあったのだろうが3人目で見つけることが出来た。
説明文
横穴への階段と横穴入り口
保存されている2つの横穴の内部。
   
 

西谷戸横穴墓群

 
町田市教育委員会
パンフレットより
昭和58〜59年に本格的に調査され、9基が見つかり人骨の一部や副葬品が出土した。 平成4年東京都史跡に指定された。
リンク集
参考にしたWEB
町田市ホームページ
探しやすさ  ○ 三輪みどり山球場の北側の道を下がったところ。分かりやすい。
説明文
全景 市内3カ所の横穴墓群の中では位置としてのアクセス性は非常によい。その反面フェンスにより内部観察は不可能だし、入り口を塞いであるため興味性はほとんど無い。
このように並んでいる。
  穴が並んでいるだけで好奇心を満たしてくれるものはない。
 

町田市考古資料室

考古資料館があるので、当然これら保存遺跡から出土したものが展示してあるものと思い訪問した。 訪れる人も少ないのだろう、第2・4土日のみの開館である。
リンク集
参考にしたWEB
町田市ホームページ
   
外観
入ったところ。ここに並んでいるものだけ。 地下に収蔵庫があるらしいが・・・・。
上の写真で右側に大物が並んでいる。
中央の展示テーブルの一部