町田市の谷戸の風情

町田を終の棲家にして10年が過ぎた。体重管理とスキーのために歩きを始めたが70を過ぎたころから登り坂が辛くなってきた。距離稼ぎのためだけの歩きではおもしろくないので、写真に記録しWEBにアップすることで萎える気持ちを支えている。これまでに市内を流れる河川、遺跡、名木、神社、サクラと続けてきたが次の ターゲットはアップダウンの元凶である谷戸を探訪することにした。
探訪する谷戸は次のようにして決めた
1)土地開発により消え去った谷戸で開発の谷間に残された谷戸。(文字通り谷間として残っている)
2)1978年 東京都が歴史環境保全地域として指定した谷戸。
3)都市公団が土地開発のために区画整理を予定したが、その後の経済状況により2004年〜2005年にかけて開発を中止した土地を有効に活用すべく町田市が「北部丘陵まちづくり」を推進している地域からピックアップ。
4)その他

谷戸名称

所在地

特   徴

保存協力団体

所在地地図

1開発の谷間

:入り口 :谷戸

片所谷戸
(かたそ)

小山町 整備された通路は150m程度しかない小さな谷戸。
絶滅危惧種のホシザクラが自生している。

小山のホタルと
自然を守る会

南谷戸

三輪町 都市開発により消え去った谷戸の生き残り。

三輪長生会

三谷戸・玉田谷戸

三輪町 古墳への入り口。規模は小さいが風情のある谷戸。

三輪みどりの会

 
2東京都歴史環境保全地域

万勝寺谷戸

小野路町 昔万勝寺の寺領だったと思われる大きな谷戸。 町田歴環管理組合
管理組合紹介WEB

神明谷戸

図師町 比較的棚田が整備されている。東京都ベスト5の一つ

五反田谷戸

図師町 谷戸の中央に樹齢200年と言われるサクラがある。

白山谷戸

図師町 東京都ベスト5の一つだが耕作放棄地が多い。
3町田市北部丘陵まちづくり地域  

奈良ばい谷戸

下小山田町小野路町

耕作・林地管理放棄によって荒廃した谷戸を町田市の旗振りで再生を図っている。

NPO法人
まちだ結の里

東谷戸

下小山田町 NPOゼロウェイストによる田んぼ再生プロジェクトが進められている。 NPOゼロウエイストの会は止めた

田中谷戸

上小山田町

北部丘陵まちづくり構想で「源流・保水の森」と位置付けられている。 NPO
いきいきまちだ

野中谷戸

上小山田町

東京都ベスト5の一つ。新しい放棄地が多い。  

西山中谷戸

下小山田町

東京都ベスト5の一つだが荒れ方が一番酷い。

 

 
谷戸について
町田市は多摩丘陵地帯にどっぷりと嵌り込んでいる。この丘陵地帯に谷戸が出来たのは約2万年前の最終氷河期頃にかけて進んだ雨水・湧水により浸食され、その後の縄文期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進んで谷あいに平坦面が形成されたと考えられている。
即ち谷戸とは、丘陵地の谷あいの低地のこと。関東地方、特に多摩丘陵地区(東京都多摩地方、神奈川県東部)の地名に○○谷戸というように用いられることが多い。三方を高さ数十メートルの丘陵に囲まれた小川の源流域で、幅は高々数百メートル程度、奥行きはせいぜい数キロである。
 
東京都環境局自然環境部が2000年に「谷戸」を尾根線で囲まれた谷のうち、(1)標高差が300m以内で、(2)谷底部を有する地形、と条件設定したところ、多摩地域で404箇所が抽出され、さらに「自然環境の資質による評価」を行ったところ、Aランクは5箇所、そのうち4ヶ所は町田市の谷戸とか。(この調査前13年間に1割にあたる48カ所が消失 したとのこと)

東京都調査によるAランクの谷戸(5箇所)はつぎの通り

横沢入     (あきる野市(横沢入里山保全地域))
野中谷戸   (町田市上小山田町)
西山中谷戸  (町田市上小山田町)
神明谷戸   (町田市(図師小野路歴史環境保全地域))
白山谷戸   (町田市(図師小野路歴史環境保全地域))

谷戸は、森、沼地、水田と数多くの動植物から構成される豊かな生態系を持つが、戦後の大規模な住宅造成により盛土、切土などの地形改変を受け、環境が失われた谷戸も多い。しかしながら、都市化が進む地域においては緑地や水源地としての希少性・貴重性が認められて保全する動きも出て来ている。

 
集水域の観点から
谷戸とは、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、源流地である。
大量の水を使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本において稲作が始まってからしばらくの間、利水・治水技術が発達していなかった(当初の鉄製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具は木製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した)頃には、集水域であるから湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。よって丘陵地内にあっては古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている。
反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形である為に日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態になっていることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へは農業用水を直接引き入れると水温が上がらないうちに入ってしまうこととなり、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫される米の食味が悪くなるとの指摘がある。
戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名が石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、平野部での稲作が盛んになった。 さらに明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に藩主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、「高度経済成長」期になると農機や化学肥料の導入をはじめとする集約化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。 また、湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある。