南谷戸(三輪・西谷戸の先端部)
この地域では古くから水稲栽培が行われてきた。灌漑用水は主として溜池に依存していたらしく明治21年村誌には4つの溜池についての記述がある。 高戸池 面積:344坪 水利:渓間ヨリ湧出スル水ヲ溢シ田7反2畝歩ノ灌漑ニ供ス。 開鑿年月:不詳 南谷池 面積:148坪 水利:自然湧出スル水ヲ溢シ田9反1畝歩ノ灌漑ニ供ス。 開鑿年月:不詳 鎌田池 面積:360坪? 水利:渓間ノ湧水ヲ潝シ田2反7畝12歩ノ灌漑ニ用フ。 開鑿年月:不詳 沢谷池 面積:311坪 水利:渓間ノ湧水ヲ潝シ田2町7反23歩灌漑ニ供ス。 開鑿年月:不詳 昭和2年の鶴川村全図に記載の池はつぎの4つである。 沢谷戸池、鎌田池、高戸池、南谷戸池。 この内沢谷戸池と鎌田池は三輪土地区画整理事業で埋め立てられた。 池として現存するのは南谷戸の一番奥にある高戸池とその手前にある南谷戸池になってしまったが、現在灌漑に使用されているのは南谷戸池のみになっている。 |
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明治14年作成の三輪村の地図(下に述べる)によると鶴見川に向かって3つの大きな開析谷が深く切り込んでいる。谷の開口部は3つともほぼ北東方向に向いており南東側が深い山林地帯になっており、人々はこれら3つの谷間を中心に生活を営んでいた。 またこの地域に白坂横穴墓群や西谷戸横穴墓群が存在することは、 古墳時代からの歴史ある地域と考えられる。 土地の古老曰く「昔は隣の谷戸に行くためには山越えより下に降りて行くほうが楽だった」 相当な仕切りの山林があったのだろう。 しかしながら、三輪土地区画整理事業によって、3つの谷戸は殆ど全て埋められてしまった。(航空写真でそのすさまじさがわかる) 北西側から新田谷戸(しんだやと)、次いで沢谷戸池を含む沢谷戸も埋められた。(その一部を町田市が「三輪沢谷戸緑地」として保存はしている)南東側の西谷戸も埋められたが、その先にあった南谷戸の先端部分のみがかろうじて埋め立てを免れた。 (航空写真で見ると右の写真の上方に畑が道路に沿って伸びているが、全て谷戸を埋め立てた畑とのこと 。古老曰く「生産緑地に指定されたので売ることも出来ない」と) 右の図は赤線部分が埋め立てを免れた南谷戸で、谷戸の先端部(図の下)に南谷戸池がある。 |
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南谷戸の先端部(図の黄線部)はこの写真では開けた土地に見えるが今回の探策時は休耕田になっており、土地の古老に尋ねると「日陰部で収量も少ないので止めたのだろう」とのことだった。 | |
2010/05/18
鶴見川クリーンセンター横の谷戸を埋めた砂利道を入ると、その先に水を張った棚田が迎えてくれる。稲苗も田植えを待っている。写真右手の一段高いところにも水田があるが、そこへの水は上の写真の青丸付近に井戸とポンプがあるとのこと 。 谷戸の中央には大木と広場がある。棚田は先端部から水が張られていた。 その先を進むと休耕田があり確かに日陰である。その奥に水面は見えないが南谷戸池があり、ほんの少しの水がちょろちょろ流れていた。この流れが棚田を潤すのだから自然は驚きである。 |
2010/10/22 9月下旬に蹴躓いて医者通いする羽目になり、稲刈りを撮るチャンスを無くしてしまった。 |
2011/5/8 田んぼを耕している方が居られ、この谷戸の中央に位置する大木の種類について尋ねた。 クヌギだと思うとの返事だったが、40年ほど前には無かったとのこと。 従って樹齢Max.40年と言うこと。それにしては樹高20m以上あるので帰宅後wikipediaで調べると、「クヌギは成長が早く植林から10年ほどで木材として利用できるようになる。伐採しても切り株から萌芽更新が発生し、再び数年後には樹勢を回復する。持続的な利用が可能な里山の樹木のひとつで、農村に住む人々に利用されてきた。」とのことで納得した。 |
明治14年の三輪村地形図を見つけた。 明らかに谷戸と思える地形を黄色線と空色線で囲った。 黄色線で囲った谷戸は三輪土地区画整理により変えられた谷戸。 空色線で囲んだ谷戸は下の図に名前を記した。 |
現在の三輪地区の航空写真に上記谷戸の区画線を貼り付け、それぞれに谷戸名を入れた。 見事に削られ埋められていることがわかる。 中の谷戸は道路と住宅になっており、田畑は残っていない。 三谷戸は以前玉田谷戸横穴古墳群を訪れたとき、谷戸の風情が残っていた記憶があり、何れ記録したいと思っている。 鶴見川も直線的な流れに改修されている。 併せてこの地区にある横穴墓群3箇所の所在地をマークした。 |